星の子

朝日新聞、日本経済新聞、毎日新聞、読売新聞、サンデー毎日、週刊朝日、週刊現代、週刊新潮など、各紙誌で紹介。反響続々。
主人公・林ちひろは中学3年生。
出生直後から病弱だったちひろを救いたい一心で、
両親は「あやしい宗教」にのめり込んでいき、
その信仰は少しずつ家族を崩壊させていく。
第39回 野間文芸新人賞受賞作。(「内容紹介」より)

この小説は、第39回野間文芸新人賞を受賞していて、157回の芥川賞候補になり、また2018年本屋大賞の候補にもなった長編小説です。

主人公は林ちひろという中学三年生です。未熟児で生まれたちひろは、まだ幼い頃に原因不明の湿疹で毎日泣き、両親は近所からの苦情などで疲弊しきっていました。そんなとき、父親の会社の同僚から貰った「金星のめぐみ」という水でちひろの体を拭いたところ、奇蹟的にちひろの湿疹は回復したのです。

それからちひろの両親はこの水を教えてくれた同僚の所属する新興宗教にはまってしまい、父親は会社もやめ、ちひろの家族は次第に小さな家へと転居を繰り返すようになります。

ちひろは両親の奇行を目にしても何も思ってはいないようですが、五歳上の姉はそのうちに家を出てしまうのでした。

そして中学三年生になっているちひろの生活は、幼いころと殆ど変りません。両親が信じる信仰もちひろにとっては普通のことであるようで、それはちひろの日常生活の一部でしかないようです。友達から「信じている」か聞かれても「分からない」と答えるだけでよく分からないのです。

中学三年生の目線で描かれるこの小説は、ちひろの見聞きしていない事実は当然ですが表には出てきません。あくまで中学三年生のちひろの目線でしかないのですが、その目線で示される事柄から推測される事実の重さは凄まじいものがあります。

しかし、ちひろは決して暗くはありません。学校や同じ宗教の仲間たちとそれなりに、あくまでそれなりにですが仲良くやっています。

本書を読んで困ったのは、そうしたちひろの生活をどのように読めばいいのか、それが分からないことです。

途中で「ターミネーターⅡ」に出ていたエドワード・ファーロングという役者に一目ぼれしたちひろが、そのときから世の中が全く違って見えることに気がつく場面があります。しかし、こうした場面が何故描かれたのか、この描写を通して作者は何を言いたかったのか、深読みすればどのようにでも読めそうです。

単純には、思春期の少女の成長を表現しているとも読めるでしょうし、本書のテーマである新興宗教に絡めて考えれば、新興宗教そのものの持つ催眠的側面をそのままに表しているとも読めるし、反対に宗教の有する洗脳状態からの覚醒の第一歩とも読めます。

その読みとるという行為そのもの、考察する過程それ自体が文学の持つ意義なのでしょうか。考察する行為自体が大切なのであれば、いわゆる大衆小説でも人間を、人生へ思いを致すことは不可能ではないと思えて仕方ないのです。

本書のような純文学系と言われる作品を読むと、そうした私にとってはどうでもいいことを考えてしまうのです。

藤沢周の『武曲(むこく)』という作品でも似たようなことを思った記憶があります。でも、『武曲(むこく)』の場合は純文学作品と言えるか自体よく分かりませんし、描かれている対象が剣道であり、主人公の剣道に対する思い入れや主人公の属するクラブのコーチ自身の有する親との葛藤など、描かれている事柄がまだ興味、関心の持てる事柄であったためにそれなりの面白さを持って読み終えることができました。

しかし、本書『星の子』の場合はそうではありません。主人公は中学三年生の女の子であり、新興宗教という心の問題が描かれ、物語に大きな出来事はありません。姉の家出や、親の奇行などという細かな出来事はあるものの、言ってみれば日常の延長線上にあるのです。

結局は、文学とは何ぞや、の議論になってくると思うのですが、それが分からない以上この小説に対して言葉を持ち合わせないのです。

本書のラストシーンもまさにそうで、読み手次第でいかようにも解釈できる場面です。両親と一緒に夜空を見上げるちひろ。しかし、両親に見える星がちひろには見えないことの意味を、皆はどう解釈するのでしょうか。

このように読者次第でどのようにも解釈できる手法、そして、この場面に至るまでの物語の流れこそが作者の手腕あればこそというところなのでしょうね。