閉鎖病棟

とある精神科病棟。重い過去を引きずり、家族や世間から疎まれ遠ざけられながらも、明るく生きようとする患者たち。その日常を破ったのは、ある殺人事件だった…。彼を犯行へと駆り立てたものは何か?その理由を知る者たちは―。現役精神科医の作者が、病院の内部を患者の視点から描く。淡々としつつ優しさに溢れる語り口、感涙を誘う結末が絶賛を浴びた。山本周五郎賞受賞作。(「BOOK」データベースより)

 

ある精神科病棟を舞台に、そこに入院している患者たちの日常を描いて山本周五郎賞を受賞した長編の感動作品です。

本書は開放病棟に入院している患者の生活を描くことで、人間としての存在、その尊厳などについて改めて考えさせられる作品でした。

 

精神病院を舞台にした作品というと、北杜夫の『楡家の人びと』(新潮文庫 三部作)を思い出しました。

ただ、『楡家の人びと』という作品は入院患者を描いたものではなく、精神病院を経営する側の楡家という一族の姿を描いた作品であり、本書とは少々趣を異にします。

 

 

小説では類似した作品は思い出せないのですが、映画にはジャック・ニコルソンが主演をしアカデミー賞主要五部門を独占した『カッコーの巣の上で』が精神病院を舞台にしていたと記憶しています。

この映画は、刑務所に収監されることから逃げようとして精神病を装った男の精神病院での自由な行動と、管理しようとする病院側との衝突を描いた作品でした。

 

 

ところで本書は、チュウさんこと塚本中弥という精神分裂症を患っている男、レイプ被害者の女の子島崎由紀、それに親殺しで一度は死刑を執行され、どういうわけか生き延びてしまった男梶木秀丸などを中心として進みます。

 

本書を読み始める前は、本書『閉鎖病棟』という作品は単に精神病院を舞台とした普通のミステリーだという認識で読み始めました。しかし、内容は全く異なりました。

解説で逢坂剛氏の言葉を借りると、「本書閉鎖病棟』は、作者が専門とする精神科の病院を舞台にした群像ドラマであり、一種のビルドゥングスロマンである。・・・ただし、・・・その種のきわものとは別次元の、きわめてシリアルな小説」なのです。

実際、精神病院の開放病棟でのチュウさんの生活の描写を中心に物語は進みます。それは、精神分裂病という病名で入院しているチュウさんらの普通の生活を描き出しているだけです。

そこで、チュウさんは「精神分裂病という病名は、人間を白人や黒人と呼ぶのと大して変わらない」と思い、自分が「黄色人種」なら主治医も「黄色人種」だと可哀相になったりしています。

 

また、チュウさんは患者たちが文化祭で演じる演劇の脚本を書くことになりますが、それは皆が一丸となるために書いたのではないと言います。

患者は入院するまではみんな会社員や大工などの何かであった筈なのに、入院したとたんに患者という別次元の人間になってしまいます。

しかしそうではなく、患者ではあっても患者以外の者になれることを訴えるために書いたというのです。

 

精神分裂病の患者さんに対しては、私たちのとる態度としては、本書でのチュウさんの妹夫婦などのように、何をしでかすかわからないという不安感を抱くのが普通だと思います。

そして、そのことの理不尽さを精神病の専門家である作者などはよくわかっていて、本書のような作品が書かれたのでしょう。

私らの社会から区別され、「精神病」と言われる病にかかっている人たちの大半は危険でも何でもない、普通の生活を営むのに何の支障もない人たちだと言われているようです。

精神病院に入院しているひとくくりの「患者」ではなく、個性を持った人間であり、普通の生活を営み得る存在としてあるというのです。

それでもなお、いわれのない拒否感を持つのが私たち無知な一般人であることを理解したうえで、何とかその壁を、その無知さを取り払おうと努力されているようです。

 

そうした「普通」の生活を営むチュウさんたちの生活に、暴力という理不尽な要素をもたらしているのが元ヤクザであろう重宗という男でした。

チュウさんたちの普通の生活は、この重宗により脅かされ、のちにとある事件が引き起こされてしまいます。

そして、物語はクライマックスへと向かうのですが、そこで叫ばれるチュウさんの言葉は感動的です。

 

家族が家族として暮らすこと、人が人を愛するということ、精神障害者と呼ばれる人たちと一般社会との乖離など、本書が掲げるテーマは多岐にわたります。

でも、一番は「生きる」ということの大切さを教えてくれているようです。

 

ちなみに、本書は梶木秀丸を笑福亭鶴瓶、チュウさんを綾野剛、島崎由紀を小松菜奈というキャストで映画化されます。劇場公開日は2019年11月1日です。

詳しくは下記の公式サイトをご覧ください。