本書『八月の銀の雪』は、人生に迷った人々が科学に触れ、自らの路を見出す姿を描く、新刊書で246頁の短編小説集です。
爽やかな文章で、迷いながら生きている人の人生とさまざまな科学との接点を見つけて描き出す、2021年本屋大賞および第164回直木賞の候補作となった作品集です。
『八月の銀の雪』の簡単なあらすじと感想
不愛想で手際が悪い―。コンビニのベトナム人店員グエンが、就活連敗中の理系大学生、堀川に見せた驚きの真の姿。(『八月の銀の雪』)。子育てに自信をもてないシングルマザーが、博物館勤めの女性に聞いた深海の話。深い海の底で泳ぐ鯨に想いを馳せて…。(『海へ還る日』)。原発の下請け会社を辞め、心赴くまま一人旅をしていた辰朗は、茨城の海岸で凧揚げをする初老の男に出会う。男の父親が太平洋戦争で果たした役目とは。(『十万年の西風』)。科学の揺るぎない真実が、人知れず傷ついた心に希望の灯りをともす全5篇。(「BOOK」データベースより)
人見知りで、就職活動も上手くいかずにいた堀川は、いつも行くコンビニエンスストアで、ベトナム人アルバイトのグエンと知り合う。段ボールで作るロボットと、それを制御するプログラミングだけを趣味としていた堀川は、彼女から地球の地殻やコア、コアの中の内核などの話を聞くのだった。
ラストシーンでのグエンの言葉「銀の森に降る、銀の雪の音」などの詩的な言葉は美しく響きました。
しかし、主人公が自分の就職活動に積極的になれた直接的な理由は、グエンが聞かせてくれた地球の中の説明そのものよりも、異国で苦労しているグエンが直接に力づけてくれた言葉そのものに力を得たように感じたものです。
自分の人生を“当たっていない”人生であり、娘の果穂にも何もしてやることができないと思っていたシングルマザーのわたし(野村)は、一人娘の果穂との外出の折、国立自然史博物館の動物研究部(委託)に勤める宮下和恵という女性と知り合う。宮下からクジラなどの生態の話を聞いたわたしは、生物画を描くのが仕事だという宮下から絵のモデルになってくれるように頼まれた。
この物語の“わたし”は、自分の人生でありながら“主役”ではないと感じ暮らしています。
中身はかなり異なりますが、こうした物語を読むと、いつも「弱い人物」という一点で遠藤周作の『沈黙』を思い出します。
江戸末期に日本に布教に来たキリスト教宣教師の話ですが、マーティン・スコセッシ監督によって映画化もされた世界に知られた名作です。
主人公である宣教師と神との話しではなく、棄教者であるキチジローの行動に衝撃を受け、弱者に対する神の存在は何なのか、考えさせられたものです。
この「海へ還る日」という物語では、宮下という女性の姿がまぶしく、科学の話自体ではなく、宮下という女性の生き方、宮下の言葉によって救われただろう主人公の姿が気になったものです。
アパートの住人の立ち退き交渉を担当している園田正樹は、立ち退き対象の白粉婆こと加藤寿美江が立ち退かない理由が迷い込んできたハトにあることを知った。伝書鳩だと思われるそのハトには脚環がついていて、「アルノー19」と読める文字があった。
何百キロも離れた場所からも家に帰ってくるハト。その能力の素晴らしさに心打たれ、長年故郷に帰っていない自分を顧みる主人公がいます。
挫折した自分を受け入れてくれるかどうか不安になる主人公の正樹ですが、家に帰ろうとするハトの姿に、檸檬がいっぱいに植えられた自分の島へ帰ろうする自分の姿が重なるのです。
ハトの能力への賛美と共に、白粉婆への人間としてのあるべき姿、優しさをも取り戻す主人公の姿は、科学そのものよりも自然への共感のようにも思えます。
吉見瞳子は、自分のSNSに投降した写真で迷惑をこうむったと「休眠胞子」と名乗る人物からクレームをつけられていた。その写真は親友の奈津が送ってきたものであり、奈津と共にその人物に会うことになる。
「珪藻アート」がテーマとなっている作品です。植物プランクトンの一種である珪藻の殻がガラスの主成分であるケイ酸塩からできているのだそうです。
タイトルの「玻璃」という言葉も“ガラス”を意味します。
その0.1ミリにも満たない様々な形、色合いを持つ珪藻の殻を並べてデザインや絵にしたものを「珪藻アート」と呼びます。
下記サイトにある本の紹介をしてありました。興味のある方はご覧ください。
周りから孤立しないために処世術として「さばけた女」を演じる術を身につけた女性が、ガラスの殻をまとい生きている珪藻の姿から人間もまた同じ、と感じるのです。
辰郎は北茨城市の北端にある「長浜海岸」で、気象観測用の凧を揚げている気象学の元研究者だった滝口という男性と知り合う。辰郎は、他の土地で勤めていた原発関係の会社で不都合な事実の隠蔽を指示されその仕事を辞め、あらたに福島原発の廃炉の仕事を探そうとしていたのだ。
あってはならない事故が起きた福島原発。その使用済核燃料の放射線レベルが原料となったウラン鉱石と同程度になるまでに十万年かかるという事実。
語るならば十万年後の空とか風とかの話がいいという辰郎に、滝口はその風すらも兵器とされた事実があると話し始めます。
ジェット気流に乗せた風船爆弾の話であり、滝口が揚げていた凧には意味があったのです。
本書の惹句に「科学の揺るぎない真実が、人知れず傷ついた心に希望の灯りをともす」とありました。本書を読み終えてみると、この言葉は本書の性格を見事についているな、と感じたものです。
本書『八月の銀の雪』の作者である伊与原新という人は、東京大学大学院理学系研究科博士課程を修了している理系の人ですが、人の描き方が実にうまいと感じました。
また、物語への導入、それからの主人公と科学との触れ合いの描き方がとても自然です。科学の持つある側面が主人公の内心へと響き、心がそれに応え、一歩を踏み出す様子がはっきりとわかるのです。
本書『八月の銀の雪』は新田次郎文学賞を受賞した『月まで三キロ』という作品に続く科学の要素を交えた短編集だということです。
であるのならば、その『月まで三キロ』も読んでみたいと思わせられるだけの魅力がありました。
本書はいわゆるエンタテイメント小説ではなく、人の生き方を見つめ、考えさせられる作品です。そのきっかけとして科学を媒介にしているという点が特徴的なのです。
本書『八月の銀の雪』は直木賞の候補に挙がっている作品ですが、本書のような人間自体を見つめる作品を読むと、いつも芥川賞ではないのか、と思ってしまいます。
文学作品と大衆作品との差異が分からないのです。
その区別を知りたいとも思いますが、一方でそうした区別はどうでもいいとも思っています。自分が好きで面白いと思える作品であればそれでいいと思っているのです。
本書『八月の銀の雪』は、そうしたことまでも考えさせられる作品でした。