狂犬の眼

狂犬の眼』とは

 

本書『狂犬の眼』は、『孤狼の血シリーズ』の第二巻目であり、2018年3月に刊行され、2020年3月に文庫化された作品で、文庫本で384頁の長編の警察小説です。

大上に育てられた日岡のその後の様子を描いてあり、第一巻『孤狼の血』に比して若干迫力に欠けますが、それなりの面白さを持った小説です。

 

狂犬の眼』の簡単なあらすじ

 

広島県呉原東署刑事の大上章吾が奔走した、暴力団抗争から2年。日本最大の暴力団、神戸の明石組のトップが暗殺され、日本全土を巻き込む凄絶な抗争が勃発した。首謀者は対抗組織である心和会の国光寛郎。彼は最後の任侠と恐れられていた。一方、大上の薫陶を受けた日岡秀一巡査は県北の駐在所で無聊を託っていたが、突如目の前に潜伏していたはずの国光が現れた。国光の狙いとは?不滅の警察小説『孤狼の血』続編!(「BOOK」データベースより)

 

狂犬の眼』の感想

 

日本推理作家協会賞を受賞し、直木賞の候補作ともなった『孤狼の血』の続編です。

 

 

前作『孤狼の血』の終わりで、駐在所に飛ばされたあと復帰した日岡は、マル暴担当の刑事として、まるで大上がそこにいるかのような姿で後輩を導いている場面で終わっていたと覚えています。

二年も前に読んだ作品なのでもしかしたら間違っているかもしれませんが、でもあまりは外れてはいない筈です。

 

県北部の町の駐在所に飛ばされている日岡秀一は、久しぶりに訪れた「小料理や 志の」で、対立する組の組長を殺し、指名手配を受けている国光寛郎と出会い、その人生が変わってしまいます。

「暴力団は所詮、社会の糞だ。しかし、同じ糞でも、社会の汚物でしかない糞もあれば、堆肥になる糞もある。」という日岡は、国光寛郎が「堆肥になる」ものかどうか見極めようとし、国光を見かけたことを上司にも報告しないのです。

 

日岡の眼を通した大上章吾という強烈なキャラクターとその周りの極道の男同志の付き合いの姿を描いた前作と比べると、本書『狂犬の眼』は、は全くと言っていいほどに異なります。

本書で描かれているのは日岡と国光の二人だけと言ってもいいかもしれません。

孤狼の血』で描かれていたのが菅原文太の映画『仁義なき戦い』であるとするならば、本作は高倉健の映画『日本侠客伝』と言えるかもしれません。

バイタリティーに満ち溢れた前者と、様式美の後者と言うと言い過ぎでしょうか。

ただ、疑問点もあります。例えば、冒頭の場面で、国光が初対面の日岡に心を許す理由は不明です。

日岡との間にかつて大上と懇意にしていた瀧井一之瀬といった男たちがいたにしても、やるべきことをやったら日岡に手錠をかけさせる、と言うまでに日岡を認めた理由はよく分かりません。

それ以前に、「志の」の晶子が日岡を引きとめる理由もよく分かりません。日岡に会わせたくない客がいるのなら、日岡を追い返さないまでも、早めに帰ると言う日岡を引きとめるべきではないでしょう。

他にも細かな疑問点はありますが、そうした点は覆い隠すほどの迫力を持っている作品です。本作『狂犬の眼』で、警察という組織よりは個人と個人との繋がりを選んだ日岡は、大上章吾の跡継ぎとして成長していると言うべきかもしれません。

いずれにしろ、日岡というキャラクターの成長、そして国光という極道との交流は、読み手の「漢」または「侠(おとこ)」に対するある種の憧れを体現するものであり、心をつかんで離さないのです。

 

極道ものの走りといえば、尾崎士郎が自分自身をモデルとした青成瓢吉を主人公とした『人生劇場』という長編小説の中の「残侠篇」から作られた映画「人生劇場 飛車角」があります。任侠、ヤクザ映画の大本になった作品とも言えるでしょうか。

 

 

また、火野葦平の『花と竜』も繰り返し映画化された作品です。北九州を舞台にした玉井金五郎という港で荷物の積み下ろし作業を行う沖仲士の物語であり、作者火野葦平の父親をモデルとした作品だそうです。

 

 

ついでに言えば、筑豊の炭坑を舞台にした五木寛之の『青春の門』の「筑豊篇」でも、主人公の父親伊吹重蔵と塙竜五郎というヤクザを描いた作品もありました。

 

 

話はそれましたが、何よりも『仁義なき闘い』こそが前作のイメージです。

本書『狂犬の眼』もその流れに乗ってはいますが、どちらかと言うと前述のように高倉健の演じた日本任侠伝に出てくる男たちの印象の方が近いと思います。

バイタリティに満ち溢れた前作から、男の美学を中心に描いた本作へと変化しているように思えるのです。

いずれにしろ、本作後の日岡という大上とは異なる出来上がった日岡の物語を読んでみたいものです。

それにしても、改めて柚月裕子という作者の極道の描き方のうまさには関心させられました。

 

また、映画も続編が作られており、その内容は全くのオリジナルだそうです。

配役を見ると鈴木亮平が敵役を演じていて評判も悪くはないのですが、どうも印象が「悪役」ではないのが気にかかります。

 

ちなみに、本書『狂犬の眼』の続編として『暴虎の牙』が出版されています。そこでは本書以後の日岡の姿が描かれています。

 

盤上の向日葵

盤上の向日葵』とは

 

本書『盤上の向日葵』は、文庫本上下二巻で670頁近くにもなる、将棋の世界を舞台にした長編の社会派ミステリー小説です。

将棋の世界を舞台にした作品ですが、将棋をしない私にも面白く読むことができた、2018年本屋大賞候補作となった作品です。

 

盤上の向日葵』の簡単なあらすじ

 

平成六年、夏。埼玉県の山中で身元不明の白骨死体が発見された。遺留品は、名匠の将棋駒。叩き上げの刑事・石破と、かつてプロ棋士を志した新米刑事の佐野は、駒の足取りを追って日本各地に飛ぶ。折しも将棋界では、実業界から転身した異端の天才棋士・上条桂介が、世紀の一瞬に挑もうとしていた。重厚な人間ドラマを描いた傑作ミステリー。( 上巻 :「BOOK」データベースより)

昭和五十五年、春。棋士への夢を断った上条桂介だったが、駒打つ音に誘われて将棋道場に足を踏み入れる。そこで出会ったのは、自身の運命を大きく狂わせる伝説の真剣師・東明重慶だった―。死体遺棄事件の捜査線上に浮かび上がる、桂介と東明の壮絶すぎる歩み。誰が、誰を、なぜ殺したのか。物語は衝撃の結末を迎える!( 下巻 :「BOOK」データベースより)

 

埼玉県天木山山中で白骨死体が発見され、死体と共に初代菊水月が七組しか作らなかった六百万円もの価値がある将棋の駒が見つかる。

元奨励会員であった佐野巡査が、埼玉県警捜査一課の石破剛志警部補と組んで、確認済の二組を除いた五組の駒の所在を探すことになった。

時は戻り、教師をやめたばかりの唐沢光一郎夫妻は、父親から虐待を受けているらしい上条桂介という少年の世話をするうちに少年の将棋の才能を見抜き、なんとかその才能を伸ばすことを考えるようになった。

年月を経て、東大に合格し、父を捨て上京した桂介は、ひょんなことから真剣師の東明重慶と知り合う。この男こそ、桂介を命掛けの将棋の持つ魅力に引きずり込んでいくのだった。

 

盤上の向日葵』の感想

 

近年、羽生永世七冠やひふみん、藤井聡太氏の連勝記録や六段昇進などと、何かと話題にのぼることの多い将棋の世界ですが、本書で描かれているのは賭け将棋の世界です。

本書では、主人公ではないもののそれに劣らない重要な役割を担っている人物が登場します。それが真剣師の東明重慶という人物です。

主人公の上条桂介に「人生を賭けた死闘」である賭け将棋という真剣勝負の世界の魅力を教え、桂介の人生を振りまわす役目を担う人物です。

この強烈な存在感を持つ人物には、実はモデルとなる実在の人物がいます。それが小池重明という真剣師です。

本書を読む前に小池重明という人物を先に調べておいた方がいい、という焼酎太郎さんのお勧めに従い見つけた、団鬼六の『真剣師 小池重明』という作品を読んでいたので、本書の面白さが倍化したように思います。

この点は、著者の柚月裕子自身が「『聖の青春』と賭け将棋の世界を描いた『真剣師 小池重明』を読んだのがきっかけ」でこの作品を書いたと言っているのですから、まさに当たりでした。

将棋というゲームに人生を賭けて勝負を行う、何とも馬鹿げているとしか言えない生き方に、私には決してできないけれど、しかしどこかで憧れを持つ部分があることも否定できません。

だからこそ、学生であった私ですが、先の柚月裕子も読んだという阿佐田哲也の『麻雀放浪記』などの作品にも惹かれ、何度も読んだものです。

賭け麻雀の世界を描いた『麻雀放浪記』という作品は、強烈な個性を持った登場人物らの魅力もあってかなり人気を博した作品でした。真田博之主演で映画化もされました。その時の監督がイラストレーターの和田誠だということでも話題になった映画です。

本書の主人公上条桂介は、「本物の将棋」を見たいがために、東明重慶という真剣師の言葉から逃げることができず、唐沢から贈られた菊水月作の駒を提供することになります。

ここで、唐沢が桂介に将棋の駒を贈った理由、それが桂介が育ってきた環境にありました。

母親を亡くし、酒とギャンブルに身を持ち崩し、子供のことを顧みないどころか、虐待すら行っていそうな父親のもとにいる桂介を見て、優しく手を差し伸べた唐沢だったのです。

 

この柚月裕子という女性作家のおっさんの描き方のうまさは、この作家の『孤狼の血』でも見られるように定評のあるところですが、本書でもそのうまさは十分に表現されています。

将棋をうてば天才的なのに人との交わり方を知らず、無頼な生き方しかできない東明重慶というキャラもそうですが、佐野と共に駒の行方を捜査する石破剛志警部補もまた同様です。「外部への気配りはするが、身内への配慮は一切な」い人物なのです。

こうした個性豊かなおじさんが現代において駒を追いかけ、もう一人は過去の物語の中で賭け将棋にのめり込んでいきます。

著者自身が「将棋界を舞台にした『砂の器』」と言うように、本書を読み始めるとすぐに『砂の器』を思いだす物語の運びになっています。

現代の捜査官、過去の少年。二つの物語が交互に語られ、桂介と、重慶の人生が交錯する物語が展開されるこの物語は読み応えのある作品でした。

 

合理的にあり得ない 上水流涼子の解明

合理的にあり得ない 上水流涼子の解明』とは

 

本書『合理的にあり得ない 上水流涼子の解明』は、文庫本で336頁の、五編の短編からなるミステリー小説集です。

柚月裕子という作家の新しい面を知った、という印象を持った、軽いタッチのエンターテイメント小説で、楽しく読めた作品でした。

 

合理的にあり得ない 上水流涼子の解明』の簡単なあらすじ

 

上水流涼子は弁護士資格を剥奪された後、頭脳明晰な貴山を助手に探偵エージェンシーを運営。金遣いが荒くなった妻に疑念を抱く夫、賭け将棋で必勝を期すヤクザ、野球賭博絡みのトラブルetc.。欲に塗れた人物たちの難題を涼子は知略と美貌を武器に解決するが。著者の魅力全開、極上痛快エンターテインメント!(「BOOK」データベースより)

 

第一話「確率的にあり得ない」
この物語の中心人物だろう上水流涼子とその助手の貴山の人物紹介を兼ねた物語です。

ボートレースの全結果を当てた男とコンサルタント契約を結ぼうとしていた二代目社長の眼を覚ますべく一計を案じる上水流涼子です。

上水流涼子が弁護士資格を剥奪されたことがあり、助手の貴山が劇団員だった過去を持つ優秀な男であること、などが明かされます。その上でこの作品がこの作者のいつもの作風とは異なり、かなり気楽に読める作品集であることが読みとれます。

第二話「合理的にあり得ない」
霊能力者を自称する女から高額な皿や壺を買わされている妻に気付き、その霊能力者に直談判しようとする神崎恭一郎という資産家の男の物語です。

上水流涼子の取った方法が、法律家らしい方法でユニークと言えそうかもしれませんが、謎ときとしては特別なものがあるわけではありません。

第三話「戦術的にあり得ない」
関東幸甚一家総長の日野照治からの一億円のかかった将棋で、手段は問わないので必ず勝ちたいという依頼です。

貴山の将棋の実力がアマチュア五段だということが判ったことが収穫と言えそうな物語です。

第四話「心情的にあり得ない」
上水流涼子のかつての顧問会社の社長からの家出をした孫娘の捜索依頼があります。

この会社こそが上水流涼子の弁護士資格はく奪の原因となった会社であり、貴山の反対を押し切ってその依頼を受けるのでした。また、助手貴山と知り合った経緯も語られます。更には、新宿署組織犯罪対策課の薬物銃器対策係の主任である丹波勝利という刑事が登場するのでした。

第五話「心理的にあり得ない」
野球賭博で自殺した父親の無念を晴らしたいという娘の、父親を騙した男への復讐依頼の話です。

この物語では野球賭博の仕組みが詳しく語られています。この物語も人間ドラマに目が行くものでした。

 

合理的にあり得ない 上水流涼子の解明』の感想

 

本書『合理的にあり得ない 上水流涼子の解明』は、もと弁護士の上水流涼子と、その助手貴山の知的ゲームを楽しむ六編の短編からなるミステリー小説集です。

全体として、本書はミステリーとしての面白さと言うよりは、主人公の上水流涼子と貴山という助手のキャラクターの面白さ、そしてコンゲームとしての駆け引きに重点が置かれた物語で、非常に軽く読める、この作家の新しい一面を見せた小説です。

 

同じ女性探偵が主人公の小説として、深町秋生が書いた『探偵は女手ひとつ』と言う短編小説集があります。

この小説は、元刑事の椎名留美というシングルマザーの探偵を主人公としたハードボイルドタッチのミステリーで、全編が山形を舞台とし、会話も山形弁で貫かれているローカル色豊かな物語です。

裏社会に取り込まれそうな弱者をテーマとした物語ですが、とても読みやすい作品となっています。

 

本書『合理的にあり得ない 上水流涼子の解明』は、いつもの柚月裕子作品とは異なりそれほどの社会性を持っているとは言えないでしょうが、読みやすく面白い小説という点では両者は一致します。

ただ、本書はコンゲームであり、『探偵は女手ひとつ』はハードボイルドと言え、その差は明確にあります。

でも、私には共に続編を期待したいと思うほどに、気楽に読めて面白いと感じた物語でした。

 

慈雨

慈雨』とは

 

柚月裕子著の『慈雨』は、警察を定年退職した男を主人公とする文庫本で408頁の長編の警察小説です。

正確には主人公の内面を重視したヒューマンドラマというべき作品かもしれないのですが、その結末に納得がいかず、全面的に面白作品だとは言い難い物語でした。

 

慈雨』の簡単なあらすじ

 

警察官を定年退職し、妻と共に四国遍路の旅に出た神場。旅先で知った少女誘拐事件は、16年前に自らが捜査にあたった事件に酷似していた。手掛かりのない捜査状況に悩む後輩に協力しながら、神場の胸には過去の事件への悔恨があった。場所を隔て、時を経て、世代をまたぎ、織り成される物語。事件の真相、そして明らかになる事実とは。安易なジャンル分けを許さない、芳醇たる味わいのミステリー。(「BOOK」データベースより)

 

自分の人生を見直すために歩き遍路の旅に出た主人公は、新たに発生した幼女殺害事件の発生を知り、現場の刑事から捜査の進捗状況を聞いて、自分の経験が捜査に役立つならばと意見を述べることになる。

しかし、その事件は自らが捜査に加わった幼女殺害事件と酷似する事案であり、神場智則は自らの過去との対峙を余儀なくされるのだった。

 

慈雨』の感想

 

本書『慈雨』は、警察を定年退職した神場智則という男を主人公とした長編の警察小説です。

著者である柚月裕子氏は、本書について「過去に過ちを犯し、大きな後悔を抱えてきた人間が、どう生き直すのか」を書きたかったと書いておられましたが、そのとおりに、この物語の主人公は神場智則という警察官を退職した人物であり、ずっと引きずってきた過去の出来事に決着をつけようとする物語となっています。

 

物語自体は、この作家らしく重い問題提起を持った社会性の強い物語であり、登場人物の内心に深く切り込んで捜査員としての苦悩をあぶり出していて、読んでいて物語にどんどん引き込まれます。

しかしながら、物語の終わりで、主人公を含めた登場人物たちが下した結論についてはどうしても諸手を挙げての賛成ということはできません。

自分の決断はその人の決断であり、自身は納得できるものであっても、その決断により他者の人生をも傷つける恐れがある場合は、やはり躊躇するものでしょう。この物語の主人公もかなり悩みつつ、一つの結論に至ります。

この作者は、その『佐方貞人シリーズ』においてもそうであるように、青臭いと言われる議論を、そのまま主人公の生き方に反映させることにためらいがないようです。でも、それこそがこの作者の個性であり、面白さの原点ではないかと思うのです。

ただ、本書『慈雨』の場合、個人的には他者の人生をも左右する決断をそのまま認めることはできません。主人公の決断こそが作者が最も言いたかったことでしょうが、どうにも納得できないのです。

 

ところで、誘拐事案をテーマとした警察小説はかなりの数になると思いますが、まず思い出すのは横山秀夫の『64(ロクヨン)』という小説です。広報官という珍しい部署に勤務する三上義信を主人公とした、従来の警察小説とは視点を異にした作品で、D県警管轄内で昭和64年に起きた誘拐殺害事件を巡る刑事部と警務部との衝突の様を、人間模様を交え見事に描き出している警察小説です。

 

 

これらの社会性の強い警察小説ではなく、軽く読める痛快小説からあげるならば吉川英梨の『アゲハ 女性秘匿捜査官・原麻希』という作品があります。

警視庁鑑識課に勤める原麻希は、麻希かつての上司の戸倉加奈子と共に、それぞれの子供を誘拐され、誘拐犯の指示に従うようにと指示されます。調べていくと、そこにはかつて彼女らがかつて追いかけて敗北したテロ集団「背望会」の影が見えるのでした。

この作品を第一弾とする『女性秘匿捜査官・原麻希シリーズ』ほか、シリーズ名を若干変えながら現在までに9冊が刊行されています。

 

あしたの君へ

あしたの君へ』とは

 

本書『あしたの君へ』は、、2016年7月に刊行され、2019年11月に文庫化された作品で、文庫本で296頁という長さを持った全五編からなる連作の短編小説集です。

家庭裁判所調査官補を主人公にしたヒューマンドラマであり、柚月裕子らしい正義感に満ちた物語です。

 

あしたの君へ』の簡単なあらすじ

 

家庭裁判所調査官補として研修の間、九州の福森家裁に配属された望月大地。そこでは窃盗を犯した少女、ストーカー事案で逮捕された高校生や親権を争う夫婦とその息子など、心を開かない相談者たちを相手に、懊悩する日々を送ることに…。大地はそれぞれの真実に辿り着き、一人前の家裁調査官となれるのか!?(「BOOK」データベースより)

 

あしたの君へ』の感想

 

「背負う者」(十七歳 友里)
窃盗で送致されてきた友里は、家裁での大地の質問には応じようとはしない。そして、事件の背景調査で訪ねた友里の家はネットカフェであり、母の言いつけを守る友里ではあったのだ。
「抱かれる者」(十六歳 潤)
ストーカー行為に加え、カッターナイフをちらつかせていた十六歳の潤は、家裁での面接では優等生としての顔しか見せない。しかし、面接に応じようとしない父親からは、思いもかけない事実が明らかにされるのだった。
「縋る者」(二十三歳 理沙)
久しぶりに故郷に帰り、同級生の飲み会に参加する大地だったが、ほのかに恋心を抱いていた同級生の理沙に愚痴をこぼすと、理沙からは意外な言葉が返ってきた。
「責める者」(三十五歳 可南子)
家事事件へと担当が変わった調査官補の大地は、精神的虐待を理由に妻が離婚を訴えている調停事件を受け持つことになった。しかし、夫や義理の両親への聴取では虐待をうかがわせるものは無い。しかし、可南子の通う病院で話を聞くと事情は全く異なる様相を見せるのだ。
「迷う者」(十歳 悠真)
大地は離婚に伴う親権を争う事件を担当することになった。十歳になる悠馬に話を聞いてもはっきりした返事を得ることはできない。ふた親の生活環境を調べると、母親である片岡朋美に男の影があった。

 

あしたの君へ』の感想

 

本書『あしたの君へ』は、『孤狼の血』で第69回日本推理作家協会賞を受賞した著者柚月裕子の受賞後第一作だそうで、望月大地という家庭裁判所調査官補を主人公にした全五編の連作短編小説集です。

 

 

本書『あしたの君へ』は、これまでの柚月裕子の作品とは少しだけ印象が異なります。

社会性を帯びているという点では同じですが、主人公が未来がある若者であるということからか、登場人物に対する目線が少しだけ優しい感じがするのです。青春小説としての一面を持っているからかもしれません。

人間ドラマを描こうとすれば、「裁判」は格好の舞台となりえます。しかし、裁判所に行って民事でも刑事でもいいので、そこで行われている裁判を傍聴してみれば、証人尋問の場面などを除けば、テレビドラマなどで行われている裁判劇との違いに驚くことでしょう。

いっぽう、家庭裁判所は扱う事件が少年事案や家庭内の問題であり、推理小説の題材となるような派手さはありません。また、その性質上非公開で審理が行われることもあって、小説の題材とはなってこなかったのではないでしょうか。

 

家庭裁判所を舞台にした小説は私が読んだ範囲では思い出せません。

ただ、漫画では『家栽の人』という作品がありました。この漫画は、本書『あしたの君へ』とは異なって主人公は家庭裁判所の裁判官です。「植物を愛するように人を育てる異色の家庭裁判所判事」として、杓子定規な法律の適用だけではない判断を下すのです。これも良い作品でした。

私は未読ですが、伊坂幸太郎氏の作品で『チルドレン』という作品が、家庭裁判所調査官を主人公とした小説だとのことでした。近いうちに読んでみようと思います。

 

 

繰り返しになりますが、家庭裁判所は推理小説の題材となるような新聞に載るような事件性のある事案こそありません。

しかし、事案が事案だけに人間ドラマとして見た場合は、言葉は妥当ではないかもしれませんが、さまざまな人間模様を観察できる場所ではあります。

その点に目をつけ家庭裁判所調査官を主人公として書かれたのが本書『あしたの君へ』は、です。

家庭裁判所調査官とは、「裁判官の指示で、少年事件や離婚問題などを調査し、裁判官が判断の参考にする資料を作成する仕事」( 著者は語る : 参照 )です。

個々の事件ごとに、対象となった事案の陰に隠された真実を探り当てるというミステリーとしての興味もありながら、隠された事実からうかがえる人間ドラマこそ、作者が描きたかったことでしょう。

また、当初は家庭裁判所調査官補であった主人公望月大地が、「補」がとれ、一人前の調査官として成長していく姿が描かれています。

まさにこの作者が得意とする、また描きたい分野の物語だと思われます。本書『あしたの君へ』はシリーズ化されるかと思っていましたが、2022年6月現在でも続編は書かれていないようです。

朽ちないサクラ

朽ちないサクラ』とは

 

本書『朽ちないサクラ』は『森口泉シリーズ』の第一弾で、2015年2月に徳間書店からハードカバーで刊行され、2018年3月に徳間文庫から416頁の文庫として出版された、長編の警察小説です。

県警広報広聴課という事務方の女性を主人公とする作品ですが、主人公を事務方に設定する必然性があまり感じられない、しかし楽しめた作品でした。

 

朽ちないサクラ』の簡単なあらすじ

 

警察のあきれた怠慢のせいでストーカー被害者は殺された!?警察不祥事のスクープ記事。新聞記者の親友に裏切られた…口止めした泉は愕然とする。情報漏洩の犯人探しで県警内部が揺れる中、親友が遺体で発見された。警察広報職員の泉は、警察学校の同期・磯川刑事と独自に調査を始める。次第に核心に迫る二人の前にちらつく新たな不審の影。事件には思いも寄らぬ醜い闇が潜んでいた。(「BOOK」データベースより)

 

米崎県警平井中央署では、生活安全課が慰安旅行のために被害届の受理を先延ばしにしたことでストーカー殺人事件を防げなかったとのスクープが出てしまう。

県警広報広聴課に勤務する森口泉は、そのスクープ情報の流出元が慰安旅行の事実を親友の新聞記者の津村千佳に漏らした自分にあるのではないかと思っていた。

ところが、自分は漏らしていない、「信じて」との言葉を残した後、その千佳が殺されてしまう。

千佳から「この件には、なにか裏があるような気がする」と聞いていた泉は、平井中央署生活安全課所属の警察官、磯川俊一の力を借りて親友の死の謎を解き明かそうとするのだった。

 

朽ちないサクラ』の感想

 

2012年4月に千葉県警で慰安旅行を理由として被害届の受理を先延ばしにし、結果としてストーカー殺人事件が起きたという事件がありました。

本書『朽ちないサクラ』は、その事件を元に書かれたものと考えられます。とはいえ、相談を受けた警察による被害届の受理の先延ばしという設定だけが同じであり、あとは関係のない内容です。

 

柚月裕子という作家は私が今一番面白いと思う作家の中の一人ですが、この作品に関しては、それなりの面白さはあったものの若干の不満点がありました。

それは、一つには主人公の森口泉を県警広報広聴課という事務方に設定する必然性があまり感じられなかった、ということです。

泉が事務方であることが物語の終わりに為したある決心には関わってきますが、それも大したことではありません。

 

そしてもう一点。これが大きいのですが、この物語の結末が納得のいくものではないということです。

本書のタイトルの『朽ちないサクラ』という言葉に結末を暗示するものがあったわけですが、それにしては若干書き込みが浅く、物足りなさを通り越した浅薄さを感じてしまいました。

本書がリアリティーを持ったミステリーとして書かれているのですから、物語の深みを見据えて欲しかったと思います。

最初の不満点は私の個人的な感想にすぎないので無視できるのですが、二番目の本書の処理の仕方に関しては、同様の感想を持った方が多かったようです。

エンタテインメント小説の書き手として一番期待している作家さんでもあり、本書自体も物語として面白くないわけではないので、残念ではありました。

せっかくの物語が腰砕けになった印象を持ってしまったのです。

 

本書同様の構造をもった小説として笹本稜平の『破断 越境捜査』がありました。越境捜査シリーズの第三弾であり、少々現実味を欠く物語との印象を持つ小説でした。

 

 

この小説も本書『朽ちないサクラ』と同様に、敵役をあまりにも簡単に悪役として取り扱ってあり、それなりのリアリティーをもって進んできた物語が一気に現実感を失った印象を持ったのでした。

とはいえ、この『破断 越境捜査』も本書と同様に物語としての面白さはあるのですから、以上の印象をもたない人には面白い作品として読み進めることができると思います。

 

なお、本書の主人公の森口泉は、この後「私、警察官になる」との宣言通りに刑事となり、さらに機動分析係で勤務するようになります。

それが『月下のサクラ』であり、本書『朽ちないサクラ』はその作品の前日譚ともいうべき位置付けになっているのです。

作者柚月裕子の新しいシリーズの始まりです。楽しみに待ちたいシリーズがまたここにも登場しました。

 

 

ちなみに、本書を原作として杉咲花主演で映画化されるそうです。詳しくは下記サイトを参照してください。

検事の死命

検事の死命』とは

 

本書『検事の死命』は『佐方貞人シリーズ』の第三作目で、文庫本で368頁の連作の短編小説集です。

前作同様に気鋭の検事としての佐方貞人の活躍を描きながら、佐方貞人の父親の秘密にも迫る感動の一冊になっています。

 

検事の死命』の簡単なあらすじ

 

電車内で女子高生に痴漢を働いたとして会社員の武本が現行犯逮捕された。武本は容疑を否認し、金を払えば示談にすると少女から脅されたと主張。さらに武本は県内有数の資産家一族の婿だった。担当を任された検事・佐方貞人に対し、上司や国会議員から不起訴にするよう圧力がかかるが、佐方は覚悟を決めて起訴に踏み切る。権力に挑む佐方に勝算はあるのか(「死命を賭ける」)。正義感あふれる男の執念を描いた、傑作ミステリー。(「BOOK」データベースより)

「心を掬う」
佐方貞人は、投函した手紙が届かないという話を聞き、その事実を調べるように指示を出し、郵政監察官にも問い合わせようとしたところ、その監察官も郵便物の消失事件が気になっていて、犯人の目星も付いているというのだった。( 『しあわせなミステリー』所収 )

業をおろす」
佐方貞人の父陽世の法要のために故郷に帰った貞人は、陽世の友人である龍円寺住職の上向井英心に父が実刑を選んだ理由を聞く。しかし英心はそれには答えず、明日の法要に客が増えることだけを告げるのだった。( 『このミステリーがすごい!』大賞作家書き下ろしBOOK 所収 )

「死命を賭ける(死命 刑事部編)」・「死命を決する(死命 公判部編)」
武本弘敏という男が痴漢行為の疑いで起訴されたものの一貫して痴漢行為を認めないでいた。武本は国会議員や県の実力者らにも繋がりを持つ名家の入り婿であり、かたや被害者の女子高生は万引きや恐喝容疑で補導された過去を持つ、決して裕福ではない母子家庭の娘だった。そして武本家の様々な圧力の中、貞人は起訴に踏み切るのだった。
最初は刑事部で本事件を担当していた貞人だったが、その後公判部に異動になり、自ら法廷に立つことになる。

 

検事の死命』の感想

 

『佐方貞人シリーズ』第一作目『最後の証人』ではヤメ検としての弁護士佐方貞人を描き、第二作目『検事の本懐』では時を遡って検事に任官したての正義感に満ちた青年検事を、そして第三作目の本書では、佐方貞人の活躍を描きながも獄死した父親の秘密にも迫ります。

本書はシリーズ前作の『検事の本懐』を先に読んでおくべき作品だと思います。特に「業をおろす」は『検事の本懐』に収録されている「本懐を知る」の完結編ですので、そちらを先に読むべきでしょう。

 

第一話目の「心を掬う」は、細かな事実も見過ごさず、更に「罪をまっとうに裁かせる」という佐方貞人の行動原理に沿った掌編で、第二話の「業をおろす」は佐方貞人の父親の秘密に迫ります。

そして第三話「死命を賭ける(死命 刑事部編)」と、第四話の「死命を決する(死命 公判部編)」とで一編の中編であり、権力と対峙する気鋭の検事という読み応えのある作品になっています。

 

柚月裕子という作家は、個人的には今最も面白い作品を書かれている作家さんの一人だと思っているのですが、気になる点が無いわけではありません。

とくに、物語の設定が極端に過ぎると感じるところがあったり、何よりも第二話の「業をおろす」のように、「情」の側面が強く前面に出過ぎていたりもします。

こうした弱点とも言える点は、柚月裕子が尊敬するという横山秀夫の作品では感じたことの無い印象なのです。

また本書でも前巻で言われた「青臭い正義感」を振りかざす場面もあります。

しかし、この「青臭さ」は、登場人物の弁護士に「青いな。そんな青臭い考えでは、君はいずれその使命感とやらで、自分の首を絞めることになる。」と言わせているように、著者本人の意図として設定してあるようです。

そして、その世間では青いと言われる論理を貫かせていることこそが、読者が佐方貞人という主人公に感情移入し、人気がある一因だと思うのです。

 

この頃読んだ小説のなかで、本書のように正面から「正義」の意味を問うた作品の一つとして、雫井脩介の『検察側の罪人』と言う作品があります。この作品も検事を主人公とする作品で、自らの信じる「正義」と「法の下の正義」との衝突を描いた重厚な作品でした。

 

 

また、堂場瞬一の『警察(サツ)回りの夏』は、警察内部から漏れた捜査情報に振り回される記者の物語で、「報道」ひいては国民の知る権利を通して社会正義を考えさせられるものでした。

 

 

これらの重厚と言っても良い物語とは別に、タッチは全く違いますが、日常の中の正義、ご近所さんの正義と銘打たれたユーモア満載の物語もあります。有川浩の『三匹のおっさん』がそれで、かつての悪ガキ三人組が自警団を結成し、ご近所に潜む悪を三匹が斬るという物語です。

 

 

なお、本書第一話目の「心を掬う」が収められているのは“人の死なない”幸せなミステリーと銘打たれた『しあわせなミステリー』という短編集です。伊坂幸太郎『BEE』、中山七里『二百十日の風』、柚月裕子『心を掬う』、吉川英梨『18番テーブルの幽霊』の四編からなっているそうです。

 

 

なお、本書『検事の死命』も、テレビ朝日系列で上川隆也主演によりテレビドラマ化されています。

検事の本懐

検事の本懐』とは

 

本書『検事の本懐』は『佐方貞人シリーズ』の第二巻目で、文庫本で432頁の連作の短編小説集です。

佐方貞人シリーズの第一作『最後の証人』ではヤメ検として登場していた佐方貞人が、未だ新進気鋭の検察官として活躍する姿を描いた作品で、2012年に山本周五郎賞候補となり、2013年には大藪春彦賞を受賞しています。

 

検事の本懐』の簡単なあらすじ

 

ガレージや車が燃やされるなど17件続いた放火事件。険悪ムードが漂う捜査本部は、16件目の現場から走り去った人物に似た男を強引に別件逮捕する。取調を担当することになった新人検事の佐方貞人は「まだ事件は解決していない」と唯一被害者が出た13件目の放火の手口に不審を抱く(「樹を見る」)。権力と策略が交錯する司法を舞台に、追い込まれた人間たちの本性を描いた慟哭のミステリー、全5話。第15回大藪春彦賞受賞作。(「BOOK」データベースより)

 

「樹を見る」
連続放火事件の被疑者逮捕に際し、米崎東警察署の南場署長との間に確執がある県警本部刑事部長である佐野の横やりが入ることが予想された。そこで、この事件は、米崎地方検察庁刑事部副部長の筒井義雄の推薦により佐方貞人検事が担当することとなった。

「罪を押す」
当初は、出所当日に犯された簡単な窃盗事件と思われていた事件だった筈だが、佐方検事の調べが進むにつれ、思いもかけない展開を見せるのだった。

「恩を返す」
高校時代の同窓生連絡があり、呉原西署の現職の警官か脅迫を受けていて助けて欲しいという。佐方は十二年前の約束を果たしに呉原市に帰るのだった。

「拳を握る」
佐方は疑獄事件の応援のために東京地検特捜部に入ることになった。しかしそこでは、巨悪の取り締まりのために無実の人が罪を被りそうになっているのだった。

「本懐を知る」
佐方貞人検事の父親である佐方陽世弁護士は、財産管理を任されていた小田嶋建設会長からの預かり金を横領したとして懲役二年の実刑判決を受け収監されていた。ライターの兼先守はその事実を調べに広島に入るのだった。

 

検事の本懐』の感想

 

本書『検事の本懐』は、著者である柚月裕子が敬愛するという横山秀夫の作品が醸し出す雰囲気に似た作品集になっています。

それは、問題となる事件そのものの背景となる事実にまで目を向けるというものであり、かなり社会性の強い作品集になっているのです。

この『佐方貞人シリーズ』はかなり私の好みに合ったようで、立て続けにこのシリーズを読むことになりました。

検事が主役のミステリーと言えば、読んだのが四十年近くも前のことなので内容はほとんど覚えてはいませんが、高木彬光の『検事霧島三郎』がまずは思いだされます。正義感に燃える青年検事の颯爽とした姿は、映画化もされるほどに人気がありました。

 

 
(上掲右のイメージはKindle版です)

ほかに現役の弁護士作家であった中嶋博行の江戸川乱歩賞受賞作『検察捜査』や夏樹静子の『女検事霞夕子』などもあります。

現役の弁護士作家と言えば和久峻三の『赤かぶ検事奮戦記』シリーズもそうです。『赤かぶ検事』も、フランキー堺他の人によりテレビドラマ化されました。これらも数十年も前に読んだ作品なので、はっきりとした筋立てなどの中身は覚えていません。

ということは近年では検事が主人公の推理小説はないのでしょうか。法坂一広の『最終陳述』という作品があるそうですが、これは検事が主人公ということではなく、いわゆる法廷ものというべき作品のようです。

 

 

それはさておき、本書『検事の本懐』での佐方貞人は「罪はまっとうに裁かれなければならない」という信念のもとに、書面にあらわれた事実の裏側まで知ろうとし、事実自らの足で調査に赴いたりもします。

現実問題として、数多くの事件を抱える検事が全ての事件ごとに自分で調査をすることなどは不可能でしょう。

実際、第四話の「拳を握る」において、輪泉副部長が「青臭い正義感を振りかざしやがって!」と発したように、主人公の佐方が目指す生き方は現実にはかなり難しいものではあるでしょうし、事実上無理と言い切っていいと思われます。

しかし、そうした書生論をそのままに生きていく姿にどこかしら羨ましく思っていることもまた事実であり、その願望を体現してくれるという側面もあるのではないか、と思っています。

 

本書『検事の本懐』の別な側面では、第一話「樹を見る」や第四話「拳を握る」で特に見られるように、三権の一つである司法の分野における検察権力の横暴という事実を告発している側面もあります。

現実でも2010年に特捜所属の検察官による証拠隠滅事件が起きたように、決して絵空事ではないのです。

検察の実情については、魚住昭というジャーナリストが書いた『特捜検察』というノンフィクションがありました。検察の実情に斬りこんだ読み応えのあるノンフィクションでした。

 

 

また、第五話の「本懐を知る」では、佐方貞人の父親について語ることで佐方検事の過去を明らかにし、現在の佐方検事の生き方の原点をも示しています。

父親の清廉な生き方そのものが佐方貞人の生き方に強い影響を与えていると同時に、第二話に如実に表れているような社会性の強い物語であることの一側面がここにも表れていると言えるかもしれません。

現時点で(2021年08月)は、私の中でいち押しの作家さんの一人である柚月裕子の作品の中でも一番面白いと思っているシリーズです。続編を心待ちにしたいシリーズです。

臨床真理

臨床心理士の佐久間美帆は、勤務先の医療機関で藤木司という二十歳の青年を担当することになる。司は、同じ福祉施設で暮らしていた少女の自殺を受け入れることができず、美帆に心を開こうとしなかった。それでも根気強く向き合おうとする美帆に、司はある告白をする。少女の死は他殺だと言うのだ。その根拠は、彼が持っている特殊な能力によるらしい。美帆はその主張を信じることが出来なかったが、司の治療のためにも、調査をしてみようと決意する。美帆は、かつての同級生で現在は警察官である栗原久志の協力をえて、福祉施設で何が起こっていたのかを探り始める。しかし、調査が進むにつれ、おぞましい出来事が明らかになる。『このミステリーがすごい!』大賞第7回大賞受賞作。(「BOOK」データベースより)

今、個人的には一番押している作家の一人である柚月裕子氏のデビュー作で、『このミステリーがすごい!』大賞第7回大賞を受賞した作品です。

主人公である臨床心理士の佐久間美帆は、自分の担当する青年の藤木司の、「共感覚」という特殊能力を根拠とする、ある少女の死が他殺だという告発をきっかけとして、信じがたいとは思いつつも自らその少女の死について調べようとします。その「共感覚」とは、人の心が「色」として見えると言うのです。

ここまではまあ許せるのです。というよりはなかなかに興味を惹かれる設定ですらあります。しかし、この先の佐久間美帆という女性の突っ走りようは尋常ではありません。勿論彼女一人で調査を始めるのではなく、かつての同級生の力を借りて調べようとはしているのですが、結局は単独での行動が過ぎます。あまりに向こう見ず過ぎて、この物語の現実感が無くなってしまっているのです。

エンターテインメント小説の主人公ですからある程度の無茶は仕方がない面もあるのですが、結果として事件解決の役には立ったとしてもやはり無理と言わざるを得ないのです。

また、彼女に秘密を打ち明けた青年藤木司の行動も激情的に過ぎると感じました。主人公同様に少々誇張が過ぎるのです。

とはいえ、本作品は柚月裕子氏のデビュー作だということを考えると、これだけの作品を書く才能は素晴らしいと言わざるを得ないのです。だからこそ『このミステリーがすごい!』大賞の対象を受賞したのでしょうが、作品を作品として見た時には、やはり感情移入がしにくい作品ではありました。

ウツボカズラの甘い息

本書『ウツボカズラの甘い息』は、文庫本で552頁の長さの長編のミステリー小説です。

普通の主婦が犯罪行為に巻き込まれるミステリーであって個人的には今一つと感じますが、それでも普通に面白い作品です。

 

ウツボカズラの甘い息』の簡単なあらすじ

 

家事と育児に追われる高村文絵はある日、中学時代の同級生、加奈子に再会。彼女から化粧品販売ビジネスに誘われ、大金と生き甲斐を手にしたが、鎌倉で起きた殺人事件の容疑者として突然逮捕されてしまう。無実を訴える文絵だが、鍵を握る加奈子が姿を消し、更に詐欺容疑まで重なって…。全ては文絵の虚言か企みか?戦慄の犯罪小説。(「BOOK」データベースより)

 

ウツボカズラの甘い息』の感想

 

孤狼の血シリーズ』を書いた柚月裕子氏の社会派ミステリーです。じつにベタであり、個人的な好みからは少しだけはずれるのですが、それでもなおこの作家の作品には惹きつけられます。

 

 

この作者の『最後の証人』という作品の紹介において「ベタな社会派ミステリー」と書きましたが、本書『ウツボカズラの甘い息』も同様で、物語の構成や登場人物の組合せなど、取り立てて独自の観点は感じられませんでした。その意味で、ありがちな構成という点で「ベタな社会派ミステリー」という表現になりました。

 

 

しかし、話の中心となる高村文恵という女性は解離性離人症という精神障害にかかっているという設定であり、これはありふれた設定ではないでしょう。

ただ、その設定があまり意味を持っているように感じられず、その点でやはり独自性を感じられなくなりました。

 

以上のように本書『ウツボカズラの甘い息』については細かな点での不満点はありますが、何故か惹きつけられる面白さを感じるのが作者柚月裕子の作品です。物語の全体的な運びがうまいのでしょうか。個々の文章の流れが巧みだから惹きつけられるのでしょうか。

理由はよく分かりませんが、この作者の筆力には頭が下がり、新しい作品が出ればすぐに読んでで見たいと思うのです。

作者柚月裕子は、「いちばん心を砕いているのは動機の部分。人の行動の裏にある感情を書きたい」とおっしゃっていますが、それはそのまま社会派と言われる推理小説作法であり、そうした作者の作品に対する姿勢が私の個人的な嗜好と一致するため少しの不満など吹き飛ばしてしまうのでしょう。

 

本書『ウツボカズラの甘い息』の探偵役の神奈川県警捜査一課の刑事秦圭介と、その相方である鎌倉署の女刑事の中川菜月というコンビもよくある普通の話です。

彼らの捜査と高村文恵という主婦の日常とが交互に語られます。そこでは、特に高村文恵という普通の主婦(と言えるか若干の疑問はありますが)の内面が、女性ならではの視点といっていいのでしょうか、緻密に描写されていきます。

杉浦加奈子というこの物語の中心となる存在は、タイトルにもなっている「ウツボカズラ」という食虫花をそのまま暗示しているのでしょうが、この人物造形もリアリティーという面では疑問を抱きつつも、エンターテインメントとしては魅せられました。

ともあれ、本書『ウツボカズラの甘い息』は柚月裕子という作家のさくひんとしては特別な面白さはないまでも、普通に面白いと感じる作品でした。