成瀬は信じた道をいく

成瀬は信じた道をいく』とは

 

本書『成瀬は信じた道をいく』は『成瀬は天下を取りにいくシリーズ』の第二弾で、2024年1月に新潮社から208頁のソフトカバーで刊行された、連作の青春短編小説集です。

無双の女子学生成瀬あかりの行いをいろいろな視点から記して本屋大賞を受賞した『成瀬は天下を取りにいく』の続編となる短編小説集で、とても面白く読んだ作品です。

 

成瀬は信じた道をいく』の簡単なあらすじ

 

唯一無二の主人公、再び。…と思いきや、まさかの事件が勃発!?我が道を突き進む成瀬あかりは、今日も今日とて知らぬ間に、多くの人に影響を与えていた。「ゼゼカラ」ファンの小学生、成瀬の受験を見守る父、近所のクレーマー(をやめたい)主婦、観光大使になるべくして生まれた女子大生…個性豊かな面々が新たな成瀬あかり史に名を刻む。そんな中、幼馴染の島崎が故郷に帰ると、成瀬が書置きを残して失踪しており…!?(「BOOK」データベースより)

目次
ときめきっ子タイム | 成瀬慶彦の憂鬱 | やめたいクレーマー | コンビーフはうまい | 探さないでください

 

成瀬は信じた道をいく』の感想

 

本書『成瀬は信じた道をいく』は『成瀬は天下を取りにいくシリーズ』の第二弾で、主人公成瀬あかりの行動を記したとても面白く読むことのできた連作の短編小説集です。

シリーズ第一冊目の『成瀬は天下を取りにいく』は2024年本屋大賞を受賞しましたが、本書は前著にも増した面白さを持つ作品となっています。

と書いていたのですが、本書もまた2025年本屋大賞の候補作として選ばれています。

 

シリーズ前著『成瀬は天下を取りにいく』は、2024年本屋大賞を受賞するほどの高い評価を得ている作品ですが、個人的には今一つ乗り切れない作品だったと当該箇所で書いています。

青春小説としては主人公の成瀬の成長の様子などが描かれているわけでもなく、評価しにくいと感じたようです。

ところが、本書を読了してみるとその感想とは異なり、とても面白い作品を読み終えたという充実した印象を持っています。

このことは、かなり昔ではありますが、庄司薫の『赤ずきんちゃん気を付けて』という作品が芥川賞を受賞したとき、芥川賞には値しないという声が多く聞かれたことを思い出してしまいました。

それは、サリンジャーの『ライ麦畑で気を付けて』という作品との類似性という批判の側面を除けば、世間ではその文体が実に「軽い」からと言われていたためです。

その点では、作品の表面だけしか見ることができていなかった当時の多くの読者と同じだと思われるのです。

本書『成瀬は信じた道をいく』でも、第一作と同じく各話ごとに視点の主が変わる多視点の描写で成瀬あかりという特異なキャラクターを浮かび上がらせようとしています。

第一話の「ときめきっ子タイム」では、大津市立ときめき小学校四年生の北川みらいの視点で進み、第二話の「成瀬慶彦の憂鬱」では第三者視点ではあるもののあかりの父親の成瀬慶彦の心象が詳しく描写してあります。

そして、第三話「やめたいクレーマー」ではクレーマー気質の主婦である呉間言実の、第四話「コンビーフはうまい」では篠原かれんという親子三代にわたってびわ湖観光大使に就任することを言い聞かされてきた女子高校生の視点に戻っています。

また、第五話「探さないでください」でも、あかりに内緒で滋賀へと帰ってきた親友の島崎みゆきの視点で物語は進行しているのです。

 

こうしてみると、視点の主はあかりの親友の島崎みゆきを除けば、第二話で新たに登場してきた人物たちであり、彼らの目を通してあかりという存在のユニークさが一段と際立っていることが分かります。

そして、主人公の成瀬あかりはもちろんのこと、親友の島崎や篠原かれんなどの登場人物たちが成瀬あかりを中心にとても生き生きと動き回っているのです。

 

本書でやっとこのシリーズが青春小説であることを認識したことは、第四話の「コンビーフはうまい」がきっかけであったようです。

びわ湖大津観光大使になることを目的として生きてきた篠原かれんという女の子と成瀬あかりとの絡みの話ですが、この話は今まで読んだ成瀬シリーズの中で最も女子高生の悩みを直接的に問うている作品だ感じたのです。

ということは、私は具体的に若者の悩みを提起してある作品でないと青春小説として認識できないということになりそうです。

シリーズのこれまでの各短編でも、青春小説として認めてはいたのですが、この話でやっと明確に青春小説と認めているのは、単に私の読解力不足であると言い切って良さそうなそうな気がします。

 

最終的にはこのシリーズの面白さを全面的に認めるべきであり、続編を期待するほどになっています。

成瀬は天下を取りにいく

成瀬は天下を取りにいく』とは

 

本書『成瀬は天下を取りにいく』は『成瀬は天下を取りにいくシリーズ』の第一弾で、2023年3月に新潮社からソフトカバーで刊行された連作の青春短編小説集です。

第39回坪田譲治文学賞を受賞し、また2024年本屋大賞の受賞作でもあるという高い評価を受けた作品ですが、個人的には今一つ乗り切れない作品でもありました。

 

成瀬は天下を取りにいく』の簡単なあらすじ

 

「島崎、わたしはこの夏を西武に捧げようと思う」。各界から絶賛の声続々、いまだかつてない青春小説! 中2の夏休みの始まりに、幼馴染の成瀬がまた変なことを言い出した。コロナ禍、閉店を控える西武大津店に毎日通い、中継に映るというのだが……。さらにはM-1に挑み、実験のため坊主頭にし、二百歳まで生きると堂々宣言。今日も全力で我が道を突き進む成瀬から、誰もが目を離せない! 話題沸騰、圧巻のデビュー作。(内容紹介(出版社より))

目次
ありがとう西武大津店 | 膳所から来ました | 階段は走らない | 線がつながる | レッツゴーミシガン | ときめき江州音頭

 

成瀬は天下を取りにいく』の感想

 

本書『成瀬は天下を取りにいく』は『成瀬は天下を取りにいくシリーズ』の第一弾となる連作の青春短編小説集です。

主人公成瀬あかりのキャラクターが突飛としか言えない行動に出るユニークな女子高校生という設定であって、その突飛な行動の成り行きに関心が集まる作品です。

ただ、本屋大賞を受賞するほどの高い評価を得ている、という点は個人的には同意しかねるものでした。

というのも、青春小説として見たとき、主人公の成瀬の成長の様子などが描かれているわけでもないため、何とも微妙な印象しかなかったのです。

 

しかしながら文章は非常に読みやすく、主人公の成瀬のキャラクター設定も個性的であり、分かりやすくもあるので多くの読者に好印象を持たれるであろうことも分かります。

また、青春小説としても、成瀬の行動やそれに伴う島崎などの友人や周囲の反応など、成瀬のその時点での若者としての姿を描いてあるとはいえるのです。

さらには実に個人的な理由ですが、物語の舞台が滋賀県の大津市という地方に限定されているのも好感が持てます。

というのも、わが熊本市にも梶尾真治という『黄泉がえり』などの熊本を舞台にし作品を発表されている作家さんがいるのでとても親しみを持てるのです。

 

本書での成瀬のユニークさは、十四歳の中学生である成瀬あかりが幼馴染の島崎みゆきに対してこの夏を西武に捧げようと思うと宣言する第一話の「ありがとう西武大津店」で直ぐに分かります。

そして、その宣言そのままに、成瀬は実際西部ライオンズのユニフォームを着て、コロナ禍のために閉店することになった地元にある「西武大津店」に毎日通い、ローカル番組の「ぐるりんワイド」の生中継に映り込むのです。

こうして主役である成瀬あかりのユニークさが描かれるのですが、その成瀬に付き合う友人の島崎みゆきもまた個性的です。

第二話の「膳所から来ました」では成瀬は「お笑いの頂点を目指」すと宣言してM-1グランプリ出場を宣言するのですが、そのために成瀬の相方として漫才コンビ「ゼゼカラ」を結成し、ともにネタ作りを始めるのです。

こうして個性あふれる二人の中学生の日常が面白おかしく綴られていきます。

 

ところが、第三話の「階段は走らない」になるとその意味がよく分かりません。突然に稲枝敬太というサラリーマンが登場してきますが、何故この人が登場してきたのかよく分かりません。

確かに、稲枝敬太の友人でありともに小学校時代の同窓会を企画した吉嶺マサルは成瀬たちの通学路に弁護士として事務所を構えていて、のちに「西武大津店」の閉店の日に「西武大津店」へ行くという接点はあります。

しかし、それでもなお、成瀬たちの人生との関係性がよく分からなかったのです。

その後の第四話「線がつながる」では大貫かえでという膳所高校に進学した成瀬の同級生の、そして第五話「レッツゴーミシガン」では他校の西浦航一郎にと視点が代わります。

最後の第六話「ときめき江州音頭」では、成瀬の視点になり成瀬を中心とした物語へと変化するのです。

こうして、それぞれの話はそれなりに本書全体の流れの中に適宜位置付けられますが、第三話だけはよく分かりませんでした。

 

全体を通して主人公の成瀬のユニークさが光り、成瀬を中心とした生徒たちの様子がローカル色豊かに、ユーモアに満ちた描き方で語られます。

こうして青春小説として成瀬を中心とした登場人物たちの学生生活の様子が語られていくのです。

確かに、成瀬という中学生はユニークであるし、その日々は活動的であって、彼女に引っ張られている島崎達もまた輝いて見えます。

ただ、本屋大賞を受賞するほどの感動、というかインパクトがあったかと言われれば、それほどではなかった、と言わざるを得ないのです。