地に巣くう

この苛立ち、この焦燥、この憎悪、この執着。剣呑で歪で異様な気配を纒う、同心信次郎と商人清之介。彼らの中に巣くう何かが江戸に死を手繰り寄せる。今は亡き父と向き合い、息子は冷徹に真実を暴く。疼く、痺れる、突き刺さる、「弥勒シリーズ」最新刊!(「BOOK」データベースより)

「弥勒」シリーズの第六弾長編小説です。

今回は、信次郎の父親である小暮右衛門の隠された過去が暴かれます。

とある両替商の内儀であるお美代の接待を受けた信次郎は、飲まされた酒に何か入っていたらしく、その帰りに島帰りの徳助という男に刺されてしまいます。その徳助も数日後水死体となって発見されます。調べていくと、徳助を島送りにしたのは信次郎の父親の右衛門であるらしく、右衛門を恨んでいた徳助であり、事件の真実は右衛門の悪事に結びつきそうな気配があるのです。そのうちに、お美代は亭主の両替商ともども店の火災で焼け死んでしまいます。

父親の悪事を暴くことにもなりかねない探索を続行することをも「面白い」と言い突き進む信次郎の心のうちが分からず、ついていけないと思う伊佐治で、信次郎からは探索をはずすとまで言われてしまいます。また、お美代に対する調べを清之介に依頼したりと、いつもながら三人は妙なところでつながっています。

父親の真実の貌を暴き出すという点では捕物帳としての謎解き、ということになるのでしょうが、それよりもやはり小暮信次郎、伊佐治、そして遠野屋清之介の三人の心の交錯こそが本書の醍醐味でしょう。

ただ、今回は信次郎メインで話は進むものの、繰り返される心象描写の連なりは、少しではありますが読んでいてマンネリ感を感じないでもありません。勿論、本書が物語として面白くないとは言うつもりもないのですが、いささか食傷気味であることも全く否定はできないところです。

冬天の昴

「親分、心など捨てちまいな、邪魔なだけだぜ」たった独りで、人の世を生きる男には、支えも、温もりも、励ましも無用だ。武士と遊女の心中は、恋の縺れか、謀か。己に抗う男と情念に生きる女、死と生の狭間で織りなす人模様。(「BOOK」データベースより)

「弥勒」シリーズ第五弾の長編小説です。

前巻の『東雲の途』では、清之介が自分の生国へと旅立ち、自らの過去と正面から向き合うことになりました。それに対し、本書は木暮信次郎の物語と言えます。

同心である信次郎の物語、つまりは捕物帳の側面が前面に押し出された物語となっています。ある同心と女郎との心中事件が起きるのですが、何か違和感を感じ、十年前にもあった似たような事件を調べなおします。そこに、信次郎の今の情婦とでも言うべき品川宿「上総屋」の女将であるお仙の過去が絡んでくるのです。

信次郎の頼みで十年前の事件を調べるお仙ですが、物語は、お仙の陰の警護につくのが信次郎に頼まれた清之介などという意外な進行になります。

捕物帳色が前面に出ている作品とはなっているのですが、そこはやはりシリーズ色はそのままです。ただ、前巻の旅があるからでしょうか、清之介の雰囲気が、少しではありますが陰惨さが影を薄めているようでもあります。

ただ、清之介とはまた異なった闇を心の裡に抱えている信次郎ですが、本書はそうした信次郎の物語ではあります。

東雲の途

橋の下で見つかった男の屍体の中から瑠璃が見つかった。探索を始めた定町廻り同心の木暮信次郎は、小間物問屋の遠野屋清之介が何かを握っているとにらむ。そして、清之介は自らの過去と向き合うため、岡っ引きの伊佐治と遠き西の生国へ。そこで彼らを待っていたものは…。著者がシリーズ史上ないほど壮大なスケールで描く「生と死」。超絶の「弥勒」シリーズ第四弾。(「BOOK」データベースより)

「弥勒」シリーズ第四弾になる長編小説です。

シリーズ第二作『夜叉桜』、そして前作『木練柿』と、少しずつ清之介の過去が明らかにされてきていたのですが、ついに本書では清之介は自らの過去へと向き合うために生国へと旅立つことになり、一段と深く清之介の過去と向き合うことになります。

ある男の死体から見つかった瑠璃が、清之介の乳母のおふじから清之介の故郷の藩の権力闘争に、そして清之介の兄へと連なる様相を見せてきたところから、清之介は自らの生国へと旅立つ決意をします。この旅の決意の陰には伊佐治の言葉があったからなのか、清之介は岡っ引きの伊佐治のこの旅への同行も嫌がりません。

清之介の旅の結末には何が待ち受けているのか全く分かりません。分からないというよりは、陰惨な過去が明らかになり、更なる闇を抱えることになりかねない旅ではあるのです。しかし、清之介が一歩を踏み出そうとするそのことは、未来に明るさを感じる一助でもあります。

今回は木暮信次郎の活躍する場面はほとんどありません。それでも、この物語には木暮信次郎の存在がはっきりと感じられます。それはとりもなおさず、作者の人物造形がうまくいっているからに他ならないと思われます。

信次郎と伊佐治、そして清之介という三人の物語は更に深みを増し、目を離せなくなっているようです。

木練柿

胸を匕首で刺された骸が発見された。北定町廻り同心の木暮信次郎が袖から見つけた一枚の紙、そこには小間物問屋遠野屋の女中頭の名が、そして、事件は意外な展開に…(「楓葉の客」)。表題作をはじめ闇を纒う同心・信次郎と刀を捨てた商人・清之介が織りなす魂を揺する物語。時代小説に新しい風を吹きこんだ『弥勒の月』『夜叉桜』に続くシリーズ第三巻、待望の文庫化。(「BOOK」データベースより)

「楓葉の客」
「おみつ」との文字が書かれた紙くずを袖に残し、修羅場をくぐってきていそうな男が殺された。一方、遠野屋では若い娘の万引き騒ぎが起きていた。
「海石榴の道」
遠野屋を中心とした若手の商売人たちの集まりも、前作で捕まった黒田屋もメンバーであったために休止を余儀なくされていた。この集まりを何とか再開しようとしていたが、今度は帯問屋の三郷屋の吉治が殺しの嫌疑を負ってしまう。
「宵に咲く花」
小料理屋「梅屋」を営む伊佐治の息子太助の嫁のおけいは、買い物の帰りに神社の境内でごろつきに襲われ、危ないところを清之介に助けられる。そのごろつきの一人は横網町にある大店の呉服屋である井月屋の息子だと名乗っていた。
「木練柿」
女中頭のおみつが血だらけになり帰ってきて、遠野屋の一人娘おこまがかどわかされたという。早速に連絡を受けた信次郎はお駒の行方を捜すのだった。

本書は「弥勒」シリーズの第三弾で、四編からなる短編集です。

遠野屋の女中頭おみつ、遠野屋の商売仲間の吉治、伊佐治の息子太助の嫁のおけい、遠野屋の養女であるおこまという一人娘。このシリーズの脇を飾る四人の登場人物に焦点を当て、その中で物語の背景に深みを持たせる構成になっています。

前作『夜叉桜』では清之介の過去にかなり迫りました。本作の「楓葉の客」では、家族の他に女中や手代といった雇い人らの清之介の今を支える人たち、とくにおみつという女中頭を中心に描くことで、清之介のまた別な人物像を描き出しています。

清之介の今を描くという点では次の「海石榴の道」もそうで、異業種の若手の商売人を集め、何か新たなことを始めようとする商売人としての清之介が描かれています。ただ、こういう場面では当然同心の信次郎が実際の探索を行うことになり、信次郎の型破りな側面もまた伺えます。

次の「宵に咲く花」はまた、少々雰囲気の変わった物語です。というのも、話が伊佐治の息子嫁の変な病い、と言っていいものか、夕顔の白い花をみると気を失うということに関するものなのです。しかしながら、その症状には嫁のおけいの過去に隠されたある秘密があったのです。

伊佐治の家族の心温まる物語として仕上がっている物語でした。

そして、本シリーズの冒頭ですぐにこの物語から退場してしまった清之介の妻であるおりんの物語に出会うのが、本書のタイトルにもなっている本書四編目の「木練柿」です。

この物語で清之介とおりんとの馴れ初めや、おりんの父親で遠野屋の先代吉之助と清之介との交流などが明かされます。この物語の発端が垣間見える、シリーズ上も大切な一遍です。

そして、そのことは、清之介と吉之助やおりんとの想い出を語るのが、おりんの母親おしのであることも意味があります。おりんの死で一時は精神の異常すら感じられたおしのでしたが、おこまという愛情を注ぐ新たな対象が出来たこともあり、また清之介に対する思いすらも少しずつ解消できてきたことを感じさせるのです。

なかなかに味のある短編集でした。

夜叉桜

江戸の町で女が次々と殺された。北定町廻り同心の木暮信次郎は、被害者が挿していた簪が小間物問屋主人・清之介の「遠野屋」で売られていたことを知る。因縁ある二人が再び交差したとき、事件の真相とともに女たちの哀しすぎる過去が浮かび上がった。生きることの辛さ、人間の怖ろしさと同時に、人の深い愛を『バッテリー』の著者が満を持して描いたシリーズ第二作。(「BOOK」データベースより)

シリーズものの宿命として、巻を追うごとに登場人物の来歴が少しずつ明らかにされてくる、というのがありますが本作も例外ではありません。

前作から半年ほど経ち、今度は江戸の町で娼婦が次々と殺されます。そこに遠野屋の商品と思しきものが絡んできて、三人目の被害者に至っては、遠野屋の手代である信三の幼なじみだったのです。そして、その矢先に清之介が不審な男たちに拉致されるという事件が起きます。

前作で壮絶な過去の一端を示した清之介でしたが、本作では更に詳しく清之介の過去が明らかにされていきます。前作『弥勒の月』の冒頭で殺された清之介の妻おりんと清之介との恋模様や、おりんの父である遠野屋の先代や母親との交流の様子が語られ、清之介の人となりまでも深く描写されているのです。

一方、そうした清之介に自分と似たものを感じているのか、何故か清之介に絡む信次郎であり、そうした二人を心配する伊佐治でした。信次郎の心のうちが見えないといつも不満を抱えている伊佐治ですが、本心では信次郎についていきたいと思っている伊佐治の心情も明らかにされていきます。本書では、この伊佐治の過去についても少しではありますが紹介してあります。

三人の心のうちの駆け引きのうまさは、少しだけですが感じられる心理描写のくどさを打ち消して余りある面白さです。

ここまで登場人物の心理描写に踏み込んだ小説はあまり思い浮かびません。小説作法として一人称視点で描くという方法がありますが、それとも異なります。

ただ、一人称で描かれ、更に視点の主の主観にまで踏み込んでいる作品として木内昇の『新選組 幕末の青嵐』が思い浮かびました。この作品は、章ごとにその視点の主が変わりつつ視点の主である隊士を描き、その視点の先にある近藤や土方らを描き、そして新選組自体を描き出しています。人間の内面を通してより大きな組織を描き出しているのですが、本書のように湿度の高い描き方ではなく、また心の内へ向かった描写ではなく、心を通して見た客観を描いているところが本書とは全く異なります。

一人称小説は、多かれ少なかれその人の内心に向かうのでしょうが、『新選組 幕末の青嵐』はその手法が実に効果的だったので心に残っていたのでしょう。

弥勒の月

小間物問屋遠野屋の若おかみ・おりんの水死体が発見された。同心・木暮信次郎は、妻の検分に立ち会った遠野屋主人・清之介の眼差しに違和感を覚える。ただの飛び込み、と思われた事件だったが、清之介に関心を覚えた信次郎は岡っ引・伊佐治とともに、事件を追い始める…。“闇”と“乾き”しか知らぬ男たちが、救済の先に見たものとは?哀感溢れる時代小説。(「BOOK」データベースより)

この物語の中心となる三人の登場人物の心象の描き方が実にうまく、一気に物語に引き込まれました。

本書は冒頭で女の入水自殺があり、その女が遠野屋の女将のおりんだった、というところから始まります。そこに駆け付けた遠野屋主人の清之介は、お凛が自殺する筈は無く再度の探索を願いますが、その様子を見ていた信次郎は清之介という男が妙に気になるのです。

おりんは何故死なねばならなかったのか、それは清之介の過去に連なる物語であり、このシリーズを貫くテーマにもつながっていきます。

そして、次第に明らかになっていくその謎は、この物語の三人を中心とする人間模様の面白さと共に、緊張感のある文章で進む物語がミステリーとしての魅力も十分に勿論持っていることも示しています。

ただ、その魅力的である筈の心象の描き方こそが逆に問題であるとも言え、人によっては拒否反応を示すかもしれません。それほどに暗い。そして、受け取り方によっては、重い物語です。

三人の中でも、遠野屋主人である清之介に関してはよりその闇が深く、受け付けないという人がいてもおかしくはありません。その代わり、ということでもないでしょうが、同心の木暮信次郎は清之介に対して遠慮がありません。信次郎は清之介と顔を合わせるたびに今にも斬りつけんばかりに清之介に迫ります。しかし、信次郎自身にしても心に抱える闇があるのですから厄介です。

そうした二人の間をうまく取り持つのが岡っ引きの伊佐治です。もとは信次郎の父親木暮右衛門の手下だったのですが、信次郎が父親のあとを継ぐとそのまま信次郎の手下となり、信次郎の心の裡が読めないことが多々あってついていけないと思いつつも、何となく辞められずにいるのです。

遠野屋のおかみのおりんの死は清之介の過去に結びついていきます。清之介はそのことに次第に気付いていくのですが、信次郎たちに明かすわけにもいきません。清之介の哀しみばかりが深くなるのです。

今後の展開が楽しみな一冊でした。

弥勒シリーズ

弥勒シリーズ』とは

 

この『弥勒シリーズ』は、北町奉行所の定廻り同心とその岡っ引き、それ小間物問屋主人という三人を中心に進む、「心の闇」を中心に描き出す長編の時代小説です。

 

弥勒シリーズ』の作品

 

 

弥勒シリーズ』について

 

本『弥勒シリーズ』の中心となる登場人物は、北町奉行所の定廻り同心の木暮信次郎とその手下の岡っ引きの伊佐治、そして小間物問屋遠野屋主人の清之介という三人です。

本『弥勒シリーズ』を通して清之介の過去が大いにかかわってきます。それは剣の使い手である周防清弥としての過去であり、父親の手札としての殺し屋という過去なのです。

清之介の過去にまつわる「闇」から救い出してくれたのが妻となる「りん」であり、普通の人間として暮らし始めた矢先の出来事として描かれるのが第一巻目冒頭で描かれる女の入水自殺です。

清之介は涙一つ流さないまま、りんは自分にとっての「弥勒」だったと言い、今ひとたびの探索を願いますが、その姿に何か不審なものを感じる信次郎でした。

こうして信次郎と清之介は出会い、このあとも何かとつきあいを続けていくのです。

このあと、巻を重ねるごとに三人それぞれの過去が少しずつ明らかになっていき、そのたびにこの物語の世界が少しづつ広がっていきます。

三人の関係も少しずつ変化していき、その様もまた本シリーズの魅力となっています。

 

このシリーズの対極にある時代小説のシリーズものとしては、佐伯泰英の描く物語があります。

彼の『居眠り磐音シリーズ』や『酔いどれ小籐次シリーズ』は、登場人物の心象風景に触れることはほとんどありません。あっても場面の説明に付加されたに過ぎないもので、痛快時代小説の典型であるこれらのシリーズには逆に不要なものとも思われます。

 

 

物語として見るとき、この『弥勒シリーズ』は決して明るい話ではありません。それどころか、三人それぞれが深い「闇」を抱えています。ただ、その闇を抱えた三人の人間ドラマこそが魅力だと思えます。

つまりは本『弥勒シリーズ』は、ジェットコースター的展開が好きな人には決してお勧めできる物語ではありません。というよりも、そもそも面白いと感じることなく、嫌いとすら思う作品なのでしょう。

 

また、近年の時代小説の中での私の好みのシリーズの一つである野口卓の『軍鶏侍シリーズ』は、上記の佐伯作品とあさの作品との間に位置すると言ってもいいかもしれません。

軍鶏侍シリーズ』は、主人公の源太夫の心象を園瀬藩の美しい風景に託して描写していてまったく異なるタッチの物語であって私の好みに合致します。

本書のように、突き詰めると別の世界に引き込まれてしまうような人間の心の闇を描くようなこともありませんし、物語の世界が本書に比して明るく、空間的にも広く、そして高く感じられる作品です。

 

 

作者のあさの あつこ藤沢周平の『橋ものがたり』を読んで「後ろから頭をパコンとやられたような気がした」と表現されています。

そして、『バッテリー』を書きながら並行して本書を書いていたそうです。

 

 

青春小説の代名詞のようにも言える『バッテリー』と本書では正反対の性格をしていると思うのですが、著者は「『バッテリー』を書きながらも、大人の男や女を書きたいという思い」があって、そのことを担当者に言うと是非読みたいと言われ、本シリーズ第一巻目の『弥勒の月』を書き始めたのだそうです( その人の素顔|あさのあつこ : 参照 )。

ともあれ、いまだ続いているシリーズです。ただ今後の展開が待たれます。

待ってる 橘屋草子

「薮入りには帰っておいで。待ってるからね」母の言葉を胸に刻み、料理茶屋「橘屋」へ奉公に出たおふく。下働きを始めたおふくを、仲居頭のお多代は厳しく躾ける。涙を堪えながら立ち働く少女の内には、幼馴染の正次にかけられたある言葉があったが―。江戸深川に生きる庶民の哀しみと矜持を描いた人情絵巻。(「BOOK」データベースより)

 

江戸の下町の≪橘屋≫という老舗の料理茶屋をめぐる、七編の人情物語からなる連作短編集です。

 

お多代は老舗の料理茶屋≪橘屋≫の女中頭をしている。このお多代は多くの女中を育て上げてきたのだが、今またおふくという娘が新しい女中としてやってきた。

おふくは藪入りには家族の待つ家に帰ることを楽しみにしているが、その家族も行方不明になってしまう。途方に暮れるおふくだったが、おっかさんを信じるのも親孝行だというお多代の言葉を聞いて、「おっかさんやおとっつぁんを」待ってみようと思うのだった。

 

第一話「待ってる」はこのように始まります。

次の短編「小さな背中」は、≪橘屋≫の別な仲居のおみつの物語で、「仄明り」は≪橘屋≫の臨時雇いの下働きとして働いたことのあるお敬の物語。「残雪の頃に」は仲居のおみつの、「桜、時雨る」は、板場の下働きの小僧の物語と、それぞれの短編で異なる人物の物語が語られます。

その意味ではごく普通の人情物語であり、女性らしい優しい目線の物語、と言えるでしょう。ただ、今一歩物語の世界に入りきれないもどかしさを感じる短編集だったのも事実です。

登場人物のそれぞれが未来に向かって必死に生きていこうとしていて、作者もまたその姿を一生懸命に描き出そうとしている、という印象は受けます。

しかし、個々の物語の中心となる人物の内面の描写が、若干ですが感傷的であって、更にその説明が若干冗長だと感じたのです。感情過多と言ってもいいその印象が、全体を通してまとわりついていました。

 

物語全体を通してのまとめ役的な立ち位置にある女中頭のお多代が、少々人間として出来過ぎの感はあるものの、本書全体を俯瞰する存在として在ります。

最終的にはこのお多代が、そして、冒頭のおふくが物語の中心となって収斂していくその構成は、特別なものではないのかもしれないけれども、終盤になって物語としての面白さを感じることに繋がっているようです。

 

そうした点も含め、もう少し物語の湿度を抑えてもらえればとの思いなどのもどかしさは感じつつも、上質な人情話を読んだという読後感は残ります。もともと物語の作り方が上手い人なのだろうと思わせられる作品集でした。