『浅草寺子屋よろず暦』とは
本書『浅草寺子屋よろず暦』は、2024年9月に232頁のハードカバーで角川春樹事務所より刊行された連作短編の時代小説集です。
これまでの浪人者を主人公とした時代小説とはニュアンスが少し異なる、何ともつかみどころのない、しかし面白く読んだ作品でした。
『浅草寺子屋よろず暦』の簡単なあらすじ
大滝信吾は、さる身の上を秘して、浅草寺の一角で寺子屋を開いている。源吉や三太、おさよなど多くは町人の子だ。そんな穏やかな春の日、子どもたちと縁側で握り飯をほおばっていたとき、源吉の姉が助けを求めて駆け込んできたー大切な人々を守るため、信吾は江戸の闇と真っ向から闘うことに。浅草の四季を舞台に、家族や友人、下町の人情に支えられながら、果たして信吾は天命を見つけられるのか。(「BOOK」データベースより)
『浅草寺子屋よろず暦』の感想
本書『浅草寺子屋よろず暦』は、剣の腕が立つ浪人者を主人公とするこれまでの痛快時代小説とは異なった雰囲気を持つ、何ともつかみどころのない、しかし面白く読んだ作品でした。
これまでの時代小説、それも浪人者が活躍する痛快時代小説と言えば時代小説の大家である池波正太郎の『剣客商売 』でも、現代のベストセラー作家である佐伯泰英の『居眠り磐音シリーズ』でも、基本的には主人公がその剣の腕を存分に生かして独力で問題を解決していくものでした。
しかしながら本書『浅草寺子屋よろず暦』の主人公の場合、彼自身の力ではなく、彼の知り合いの力を借りて困りごとを解決していきます。
本書の主人公もそれなりに剣の腕は立つのですが、剣戟の場面はそれほどにはありません。それよりも、いろいろと情報を集めて問題解決のために有効な人材を利用するのです。
その主人公は大滝信吾という寺子屋を営む浪人者です。本書ではその浪人者が自分の寺子屋に通う子供たちの親などの困りごとを解決すべく、奔走する姿が描かれています。
この主人公のもとには御膳奉行をしている兄の大滝左衛門尉から米が届けられ、また兄がつけてくれた清という名の下女もいるなど、ここでもこれまでの時代小説の主人公の浪人者とは毛色が異なります。
その兄の左衛門尉には杉乃という妻がおり、ひとり娘の真由は信吾になついています。
そして、基本的には本書で主人公が奔走する事件の裏にいるのが、江戸の町の裏社会の一角を牛耳る狸穴の閑右衛門という男です。
ところで、主人公が寺子屋を開いているのは、浅草寺の雷門からの参道の両側にある子院の一つである正顕院というお寺です。
この寺子屋の設定に関しては、本書の最終ページに「協力 金龍山 浅草寺」とクレジットしてあるのですが、その訳がネットに書いてありました。
なんと、浅草寺の偉いさんから改修前の浅草寺の写真や、「浅草寺さんのなかに寺子屋がある設定」のお許しをいただいた、ということでした( Book Bang : 参照 )。
そしてこの正顕院の住職の光勝もまた左衛門尉の知人であり、信吾は兄の世話で正顕院に寺子屋を構えることになります。
こうした従来の痛快時代小説の設定とは異なる、それでいて江戸の町の庶民の生活を描きながら主人公の活躍を描く新たなタッチの連作時代小説集として本書があるのです。
本書『浅草寺子屋よろず暦』の作者砂原浩太朗の文章は、舞台背景などの情景描写が実にうまいのです。この情景描写のうまさはやはり時代小説の大家である藤沢周平を思い出すとこれまでも書いてきました。
それほどに情景描写にすぐれているのですが、この点に関しては、作者砂原浩太朗本人の言葉がありました。
それは、「今作はストーリーの進展につれて季節がめぐっていくので、風景描写でそれを実感してもらおうと思いましたが、他の作品でも意識的に自然描写を取り入れています。
」というものです( Book Bang : 参照 )。
これまで浪人を主人公とする痛快時代小説は数多くの作品が書かれてきました。
しかし、主人公が寺子屋を営む作品は思い出すことができず、ただ主要登場人物の一人である浪人者が寺子屋を営む作品として金子成人の『ごんげん長屋つれづれ帖シリーズ』の沢木栄五郎を思い出すくらいです。
しかしながら、浪人を主人公とする時代小説としては『てらこや浪人源八先生』という作品があるそうです。私は未読なので一度読んでみようと思います。
蛇足かもしれませんがひとこと付け加えると、本書のクライマックスでの長屋の一行も含めて物語の関係者が一堂に会する場面は少々無理があると感じました。
さらに言えば、思いがけない人物が持ってきた意外な事実はちょっと受け入れがたい展開ではありました。
しかし、そうした難点を越えて、やはり作者砂原浩太朗が紡ぐ物語は面白いし、本書『浅草寺子屋よろず暦』もまたその例にもれずとても楽しく読み終えることができました。