『家族』とは
本書『家族』は、2025年10月に文藝春秋から320頁のハードカバーで刊行された、長編のクライムエンターテイメント小説です。
「尼崎連続変死事件」を下敷きに、暴力と監禁による洗脳を手段としての疑似家族の姿を描き出す、第174回直木賞の候補作ですが、私の好みではありませんでした、
『家族』の簡単なあらすじ
第174回直木賞候補作
「現実の世界では、すんなり完全犯罪を
達成できてしまうこともあるんだって学んだんです」2011年11月3日、裸の女性が交番に駆け込み、「事件」が発覚した。奥平美乃(おくだいら・みの)と名乗るその女性は、半年と少し前、「妹夫婦がおかしな女にお金をとられている」と交番に相談に来ていたが、「民事不介入」を理由に事件化を断られていた。
奥平美乃の保護を契機として、表に出た「死」「死」「死」…… 彼女を監禁していた「おかしな女」こと夜戸瑠璃子(やべ・るりこ)は、自らのまわりに疑似家族を作り出し、その中で「躾け」と称して監禁、暴行を主導。何十年も警察に尻尾を摑まれることなく、結果的に十三人もの変死に関わっていた。
出会ってはならない女と出会い、運命の糸に絡めとられて命を落としていく人々。 瑠璃子にとって「家族」とはなんだったのか。そして、「愛」とは。
「民事不介入」に潜む欠陥を日本中に突きつけた「尼崎連続変死事件」をモチーフとした、戦慄のクライムエンターテイメント!(内容紹介(JPROより))
『家族』の感想
本書『家族』は、世にいう「尼崎連続変死事件」をモチーフに、警察の「民事不介入」や、「家族」という存在を考えさせられる、とされている長編のクライムエンターテイメント小説だそうです。
対象となる人物を洗脳状態に置いて「家族」という言葉で縛りつける姿を描いた第174回直木賞の候補作となった作品ですが、この手の作品は私の好むところではありません。
夜戸瑠璃子は、瑠璃子の妹だという夜戸朱鷺子や息子と称する鉄などを使い、多くの家族をそのコントロール下において彼らの日常を縛り、財産を吸い上げ、最終的には命をも捨てさせる毎日を送っています。
「尼崎連続変死事件」をモチーフとして書かれたこの作品は、「家族」という存在をキーワードとしてこの事件を読み解こうとしています。
そして、そのアプローチも含めて評価され、本書は第174回直木賞の候補作となっているのです。
しかし私には、人を支配し洗脳しているのは「家族」という関係性ではなく、「暴力」だとしか思えませんでした。
たまに、その暴力から逃れた人たちが警察に助けを求めても、警察は「民事不介入」という原則を振りかざし、助けを求めている人を無視してしまいます。
暴力にあらがう手段を持たない人たちは、最後のよりどころである警察から見捨てられればあとはただ逃亡し、身をひそめるしかありません。
ここで、警察が「民事不介入」という言葉を隠れ蓑にしてその為すべき職務を果たしていなかった、という事実に好いては様々な議論があるでしょうし、必要だというのはわかります。
本書の夜戸瑠璃子が、暴力を手段として支配ている、というのはわかりますが、その行動を通して「家族」を考察することになるというのがわからないのです。
そこでは瑠璃子らが「愛」や「家族」という言葉を使ってはいますが、それは単に外観を飾っただけであり、その本質は「暴力」でしかないと思うのです。
でも、本書は第174回直木賞の候補作になっているのですから、私の読み込み方が間違っているとしか言うしかありません。
また、本書では多視点で語られていて、その時々に瑠璃子のターゲットになった人たちが、どのように瑠璃子の支配下に落ちていったかという内心を描写してあります。
その際に鍵となるのはやはり「暴力」への恐怖であり、瑠璃子自身や鉄という男たちが暴力装置として機能しています。
また、瑠璃子自身の来歴についてはあまり語られていません。ただ、ある団地のガキ大将であり、面倒見がよく、ダーヤマこと柊二の食事の面倒まで見ていた、などの描写があるだけです。
でも、瑠璃子の詳しい心象などは全くと言っていいほどに描かれておらず、瑠璃子が何故にこのようなカリスマ的な存在になったのかの説明はありません。
自分たちの間には「愛」があり、だから「家族」なんだというのが瑠璃子たちの決まり文句です。家族だから躾けもしていいのであり、すべきなのだというのです。
人が暴力やマインドコントロールなどを手段として人を支配し思うがままに操るという事件は本書がモチーフとしているといわれている「尼崎連続変死事件」のほかにも「北九州監禁殺人事件」などが挙げられます。
誉田哲也の『ケモノの城』もまた、そうした人が人を虐待する事件をモチーフとして書かれたといいます。
どちらも、人間の本質に対する根源的なところでの疑問がわいてきます。それほどに残虐性が際立つ事件であり、普通の感覚では信じることができない事件だといえます。
誉田哲也は、それらの事件をそのままに描き出すことは少々読者にとってつらいだろうから、エンターテイメントとして再構築して書いた、という趣旨のことを書いておられました。
しかしながら、本書の場合、事件を事件としてある程度そのままに描写してあるような気がします。
本書については、結局は「暴力」であり、「暴力」を手段として人を対象の人物を全人格的に自分の支配下に置く姿が描かれています。
相手の心を砕き、相手の家や金などの財産を奪い取って生活手段を独占し、自分に逆らえなくすることを常套手段とする一人の怪物の姿を被害者たちの眼を通して描いた作品だと言えます。
そして、そのことが「家族」について考察することに結びつくものなのか、私には分からななったのです。