『春立つ風』とは
本書『春立つ風』は『弥勒シリーズ』の第十三弾で、2025年3月に光文社から320頁のハードカバーで刊行された、長編の時代小説です。
日常に潜む闇をベースに進む話が魅力的なこのシリーズですが、本書はその原則がそのままに当てはまる作品だと思います。
『春立つ風』の簡単なあらすじ
油屋『出羽屋』の離れで放蕩息子一郎太が喉を突き、自ら命を絶ったという。主、忠左衛門と後添えのお栄に話を訊く同心木暮信次郎はいつになく執拗だ。彼が拘るということは、ただの自死ではないのかーー。研ぎ澄まされた刃を封印し、揺るぎない商いの未来に情熱をそそぐ遠野屋清之介、岡っ引が天職の伊佐治、そして、清之介を獲物ととらえ、歪な眼差しで人を見る信次郎。男たちの感情が静かに熱くうねり合う、弥勒シリーズ最新刊!(内容紹介(出版社より))
深川の油屋「出羽屋」の跡取り息子の一郎太が先代の隠居部屋だった離れの一室で、喉を突いて死んだ姿で発見された。
現場が密室であったこと、それに遊び人であった一郎太の「生きて行く甲斐がない」という書置きがあったことなどから、伊佐治は一郎太の死は自死以外ないと考えていた。
しかし、父親の忠左衛門と後妻のお栄、それに女中のおこんや番頭の亥助らの話を聞いた信次郎はなお不審なものを感じたのか、自死という見立てを認めないようだった。
『春立つ風』の感想
本書『春立つ風』は『弥勒シリーズ』の第十三弾となる作品です。
密室殺人の謎を解く小暮信次郎と岡っ引きの伊佐治、それと新しい商売に乗り出そうとする遠野屋清之介の姿が、これまでのシリーズ作品と同様に描かれています。
遠野屋清之介の脳裏には常に新次郎の存在が影を落とし、伊佐治は信次郎が清之介に何かを為すのではないかと気を揉んでいる点も同じです。
本シリーズでは小暮信次郎と遠野屋清之介のそれぞれが、同心と商売人という全く別の生き方でありながらも、お互いの心のうちではその存在を常に意識し、気にかけている姿が描かれています。
それは本書でもそのままであり、刺客であった過去を押し殺して生きる遠野屋清之介の本性は変わらないとして、小暮信次郎が遠野屋の真の姿を引きずり出そうとする点も変わりません。
また本書では信次郎と清之介の棲み分けが明確になされているようでありながら、その実、伊佐治が心配しているように両者の関係が一段と密接に関わりあっています。
本書『春立つ風』では、信次郎や伊佐治の『出羽屋』の離れでの自死事件に関する聞き込みの様子が事細かに語られており、本書の大半を占めるといってもいいかもしれません。
その合間に遠野屋関連の八代屋との話や、奉公人の話、それに遠野屋と履物問屋の吹野屋の謙蔵と帯を扱う三郷屋の吉治との三者での新しい商売についての話し合いについての模様が語られています。
ここで遠野屋と八代屋の話とは、本シリーズ第九弾『鬼を待つ』や第十二弾『野火、奔る』の中で詳しく語られたとある事件に絡んだ八代屋との新規の話であり、遠野屋の奉公人の話とはおちやとおくみとの話です。
またおちやとは亡き八代屋主人の太右衛門の姪で今は遠野屋で働いている娘のことであり、おくみとはおちやと仲のいい遠野屋の奉公人の娘のことです。
シリーズの中で登場してきた人物なのでにわかには覚えておらず、メモ代わりとして簡単に紹介しておきます。
信次郎はいつも遠野屋清之介の刺客としての本性を冷めた目で見つめ、どこかでその本性を暴こうとしています。一方遠野屋はおりんを亡くして以来、遠野屋の商売を伸ばすことに力を尽くしているようです。
小暮信次郎の同心としての仕事の側面では、辻堂魁の『夜叉萬同心シリーズ』のような捕り物長としての側面があります。
ただ、『夜叉萬同心シリーズ』では世の中の理不尽な側面を強調し、弱者の悲哀を描いていますが、本シリーズでは被害者よりも小暮信次郎という同心の描写に力点があるようです。
他方、遠野屋の商売人としての側面だけを見ると高田郁の『あきない世傳金と銀 シリーズ』のようでもあります。
しかし、こちらも『あきない世傳金と銀 シリーズ』でのように商売上の困難を乗り越える側面よりも遠野屋清之介個人の商売への関与の仕方そのものに力点があります。
本『弥勒シリーズ』も本書で第十三弾にもなる長い物語となっていますが、小暮信次郎と遠野屋清之介との関係性にあまり変化がなく、少々マンネリ気味と言ってもいいかもしれません。
毎回、信次郎と清之介との関係は間に立つ伊佐治をやきもきする姿まで毎回同じであり、少しは何らかの変化を見せてくれてもいいのではないかと思うのです。
ただ、本書ではその関係性が一歩踏み込んだものになっているといえなくもない場面が用意されてはいます。
しかしながら、そうした小さな変化は声までも全くなかったわけではないので、次作の展開でどうなるかによると思われます。
できれば、そろそろ大きな変化を見せてほしいと思います。