青山 文平

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下垣内教授の江戸』とは

 

本書『下垣内教授の江戸』は、2024年12月に講談社から256頁のハードカバーとして刊行された、長編の時代小説です。

やはり青山文平の作品であり実に面白く読んだのですが、ちょっとだけ理屈っぽかったこと、それに最後の最後で話の進め方が都合がよすぎると感じるところがあったのは残念でした。

下垣内教授の江戸』の簡単なあらすじ

 

近代美術のすごみが横たわる圧巻の時代小説!東京美術学校発足初期から教授を務め、帝室博物館の要職にも就いた下垣内邦雄。だが、多摩近郷の豪農の家に生まれ、兄から家を継いだその半生は凄絶なものだった。「武州世直し一揆」に遭遇した兄の愁苦。それを超えようとした狂気の旅。いったい何が、徘徊浪人を斬る旅に彼を向かわせたのか。(「BOOK」データベースより)

 

下垣内教授の江戸』の感想

 

本書『下垣内教授の江戸』は、日本の近代美術の近代化に尽した東京美術学校教授の下垣内邦雄の生涯を描いた長編の時代小説です。

 

主人公の下垣内邦雄は、日本美術界で名の通った人物というわけではなかったけれども、「当代きっての日本美術の目利き」という評価を得ていた人物です。

1920年代の日本は日清、日露の両戦争を勝ち抜いて「列強」の一画に参入した後、第一世界大戦のもたらした好景気のおかげもあって「重質」な近代化を果たしていました。

そのため、東洋回帰の動きを見せ始めていた美術の世界でも「日本美術の目利き」に頼ろうとした、というのです。

そのような時代背景のもとで、本書では守屋博臣という新聞記者によるインタビューに応える下垣内邦雄の自分語りという形式をとっています。

 

ただその前に、質問者の守屋が野球少年だったのに美術に関心が向いた理由から説き起こしてあります。

守屋は「ボヷリイ夫人」を読んで文学に「かっさらわれ」て、そして「ボヷリイ夫人」が書かれた年が江戸時代であったことに驚愕し、野球ではなく文学部ができた早稲田に行こうと決めたというのです。

こうしたインタビュアー自身の事情をもそれなりに詳しく語ること自体にどれほどの意味があるのか、よく分かりません。

ただ、下垣内教授の語りへ入る前の導入としては少々長くはないかと思いつつも、当時の時代背景を示しつつ本題へと誘う、うまい導入部だとも思いました。

文芸評論家の細谷正充氏は、こうした守屋についての描写を「江戸時代と近代は地続きであり、時代の変化の中で必死に生きた、無数の人々の営為の積み重ねが「今」を作っているのだ。」ということをも表現したかったのではないかと書かれています( 現代ビジネス : 参照 )。

 

本書の読み始め当初は、下垣内という人物の日本美術へのかかわり方が関心事であって、日本美術史が本書の裏の主役だと思っていました。

ところが、その後の下垣内へのインタビューは、下垣内の「俺は人を斬ろうとしたことがあるんだよ」という思いがけない台詞から始まります。

つまりは、稀有な人生を送った下垣内邦雄という人物そのものの話だったのです。

 

もちろん、本書『下垣内教授の江戸』においても、丁寧な論理の上に物語が成り立っていくという青山文平の筆のタッチは変わりません。

そして、免許皆伝の腕前を持つ下垣内邦雄の人を斬ることを目的とする旅を語りながらも、その背景において当時の経済の仕組みであったり、百姓や豪農という農政の仕組みがわかりやすく解説されていきます。

武州世直し一揆の背景となった農民の暮らしや、年貢から税金での納税への変化などの制度の移り変わり、さらには関八州の治安状況に加え、本書の眼目である「美術」についての考察まで幅広く捉えられているのです。

 

その上で時代と共に生きた主人公の生きざまについての苦悩を問いつつ、主人公の内面を論理だてて展開してあります。

歴史的な知識を知らしめてくれると共に、物語の進行にも深くかかわってくるというこうした展開は私の最も好むところです。

 

本書『下垣内教授の江戸』はまさに青山文平の物語であり、一人の武士の文明開化の物語として実に面白く読みました。

ただ一点だけ、終盤の話の進め方があまりに都合がよすぎると感じるところがあったのは残念でした。

また、近年の青山文平の作品は初期の作品群に比して若干論理先行との印象が無きにしも非ずではあります。

しかしながら、それでも近年の時代小説作家のなかでは、第165回直木賞と第134回山本周五郎賞という両賞の候補作となった『高瀬庄左衛門御留書』などの作品を書いている砂原浩太朗と並んで最も好きな作家の一人です。

これからも期待したいと思います。

[投稿日]2025年03月16日  [最終更新日]2025年3月16日

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青山文平「下垣内教授の江戸(シモゴウチキョウジュノエド)」装画(講談社
) デザイン:鈴木成一デザイン室
クライアント名 : 講談社

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