春山入り

本書『春山入り』は、全部で六編の短編が収められた著者初の短編の時代小説集です。

侍という存在を青山文平らしいミステリーの手法で描き出した、読みごたえのある作品集でした。

 

藩命により友を斬るための刀を探す武士の胸中を描く「春山入り」。小さな道場を開く浪人が、ふとしたことで介抱した行き倒れの痩せ侍。その侍が申し出た刀の交換と、劇的な結末を描く「三筋界隈」。城内の苛めで病んだ若侍が初めて人を斬る「夏の日」。他に、「半席」「約定」「乳房」等、踏み止まるしかないその場処でもがき続ける者たちの姿と人生の岐路を刻む本格時代小説の名品。

 


 

どの物語も、主人公の身近な人物が侍としての矜持を貫くその姿から、主人公自らの姿勢を正す様が描かれています。

例えば表題作の「約定」では、望月清志郎(もちづきせいしろう)という侍が果たし合いの約定の場所に来ない相手をいぶかりながら、腹を切ります。その後、その果たし合いの場所に来なかった相手が、何故に望月はその日その場所で腹を切ったのか、その理由を推し量る様が描かれています。

その考察の前提には自分も望月も侍である、ということがあり、だからこそ腹を切る理由が分からない。次第に、漠然とした理由は浮かんでくるのですが、断定はできないのです。

読者には、望月清志郎が腹を切る前に何故に相手が来ないのか自問する場面が示されていて、そのことが果たし合いの相手方の推量を一段と考えさせるものにしています。

 

このほか「三筋界隈」は生き倒れの浪人、「半席」では矢野作佐衛門の死に様、「春山入り」では幼馴染の島崎鉄平の行動というように、主人公に身近な人の行いを見て主人公が思料する、という形をとっています。

身近な人の心情は明示してはありません。読者は主人公の推量を示されるだけで、主人公の判断が正しいのか否かは読者の判断にゆだねられています。

勿論、主人公がそのように考えるだけの根拠は提示されていて、その推量の根底には侍としての振舞いのあるべき姿があるのです。

 

ほかの短編も侍の姿を追求する好短編ばかりです。

凛としたその文章といい、侍の生き方を追求するその筋立てといい、やはりこの作家の作品は私の好みにぴたりとはまります。

藤沢周平や山本周五郎の作品とは異なり硬質ではありますが、同じ様に情感豊かで心に染み入ってくるのです。

蛇足ですが、本書は以前「約定」というタイトルで出版されていました。多分ですが、今回の文庫化に当たり改題されたものと思われます。

 

 

また、本書の中の一編「半席」は、主人公の片岡直人を主人公として新たに『半席』という短編集が出版されています。

 

伊賀の残光 - 「流水浮木―最後の太刀―」改題

その誇りに、囚われるな―。鉄砲百人組の老武士、山岡晋平。伊賀衆ながら伊賀を知らず、門番の御役目とサツキ栽培で活計を立てていた。だがある日、伊賀同心の友が殺される。大金を得たばかりという友の死の謎を探る中、晋平は裏の隠密御用、伊賀衆再興の企て、そして大火の気配を嗅ぎ取った。老いてこそ怯まず、一刀流の俊傑が江戸に澱む闇を斬る。

 

大久保組伊賀同心の山岡晋平には川井佐吉、小林勘兵衛、横尾太一、それに今は亡き中森源三という幼馴染がいました。彼らは門番として忠勤に励んでおり、ひと月に四、五回程の番以外の日は三十俵二人扶持の生計を補うためにサツキの苗の栽培に勤しむ身だったのです。

そうしたある日、川井佐吉が殺されてしまいます。佐吉が殺された理由を探るうちに、本来であれば忍びとして隠密御用を勤める身である伊賀衆が、今では門番という身分に甘んじているという事実に屈託を抱えている者の存在が浮かんでくるのです。

 

還暦を過ぎた幼馴染らが自分らの存在意義を確認する、その行為に同じ還暦過ぎの身である私はどうしても感情移入してしまいます。これは同世代の人たちには共通する思いではないでしょうか。

また、幼馴染らが自分確認のために動き回るその様は老骨達の青春記とでも言えると思います。

 

青山文平という人は侍が侍として在るそのことをこれまでの作品で書いておられます。

本書の背景とする時代は「安永」年間という設定です。

この時代は、「武家の存在じたいの矛盾が浮かび上がる」時代であり、「武家はそれぞれに自己のアリバイを模索せざるをえ」ない時代であって、ドラマが生まれ易い時代だと言います。

本書も三十俵二人扶持という軽輩の身とはいえ、自分という存在自体を見つめる武士の物語なのです。

決して派手な物語が展開するわけではありません。あくまで還暦過ぎの初老の男達の自分自身の確認の物語なのです。

蛇足ですが、本書は以前『流水浮木―最後の太刀―』というタイトルで出版されていました。多分ですが、今回の文庫化に当たり改題されたものと思われます。

 

かけおちる

妻はなぜ逃げたのか。直木賞受賞作家が贈る傑作時代長編

藩の執政として秘策を練る重秀はかつて、男と逃げた妻を斬った。二十年後に明らかになる女心の真相とは。松本清張賞作家の傑作。

二十二年前、妻と姦夫を成敗した過去を持つ地方藩の執政・阿部重秀。残された娘を育てながら信じる道を進み、窮乏する藩財政を救う秘策をついに編み出した今、“ある事情”ゆえに藩政を退こうとするが―。重秀を襲ういくつもの裏切りと絶望の果て、明らかになる人々の“想い”が胸に響く、感涙の時代長編。

疲弊した藩財政の建て直しのため、ある秘策を実地した藩執政の阿部重秀。男と駆け落ちした妻を切り捨てた過去があるが、順調に出世していた。二十年の時が経ち、今また娘が同じ過ちを犯した時、愕然とする重秀のとった行動は、そして、妻はなぜ逃げたのか――伝わり良く、奥行きのある独自の文章表現、江戸の風俗や生活・経済のあり様が丁寧に描き込まれ、瑞々しい心情描写で絶賛された松本清張賞作家の受賞第二作。 いま最も次作を期待される直木賞候補作家、二冊目の文庫(「BOOK」データベースより)

 

北国にある柳原藩では、執政阿部重秀が藩の財政の立て直しのために行っていた「種川」という鮭の産卵場を人の手で整える作業が実を結びつつあった。

この作業は阿部家の入婿である阿部長英の進言によるものだったが、その長英は江戸詰のため未だ「種川」成功の事実を知らずにいた。

名うての剣士でもある長英は藩の殖産を図らねばならない立場にありながら、江戸中西派一刀流の取立免状を取得することにより自藩の名を高めるべく勤めるしかない自身に悩んでいた。

 

著者の言葉によれば、「かけおちる」とは「欠け落ち」であり「駆け落ち」ですが、本書の「最後の欠け落ち」こそ集団からの脱落を意味する本来の意味での「欠け落ち」だそうで、「カタルシスを醸成」できたそうなのです。

とするならば、この最後に言う「カタルシス醸成」こそ著者の書きたかったことなのでしょうか。

 

本書でも、戦いをこそ本来の姿とすべき侍が、殖産にその身を捧げなければならない矛盾を問うてあります。

その中で、殖産のために苦悩する男を描きながら、その陰に居る妻の描写はあまりありません。でも、母と娘とで併せて三度の「駆け落ち」をしており、それが殖産事業に苦しむ阿部重秀の苦悩を深くしています。

 

阿部重秀の殖産事業に苦しむ過程の描写は前作『白樫の樹の下で』に劣りません。地方にある藩に居る親と江戸詰の子の、興産にかける侍としての生き様が簡潔な文章で描いてあります。

そして、クライマックスへと向かうのですが、物語の終わりの方で娘の語る言葉こそ本書で著者が書きたかったことではないでしょうか。そして、最後に「カタルシスを醸成」が出来ているかどうかを是非直接読んで確かめて貰いたいものです。

 

松本清張賞受賞第一作である本書は前作『白樫の樹の下で』と同じようでいてまた異なるやはり素晴らしい一冊でした。

 

白樫の樹の下で

いまならば斬れる! 人を斬ったことのない貧乏御家人が刀を抜く時、なにかが起きる――。
幕府開闢から180年余りが過ぎた天明の時代。江戸では、賄賂まみれだった田沼意次の時代から、清廉潔白な松平定信の時代に移り始めた頃。二本差しが大手を振って歩けたのも今は昔。貧乏御家人の村上登は、小普請組の幼馴染とともに、竹刀剣法花盛りのご時勢柄に反し、いまだに木刀を使う古風な道場に通っている。他道場の助っ人で小金を稼いだり、道場仲間と希望のない鬱屈した無為の日々を過ごしていた。ある日、江戸市中で辻斬りが発生。江戸城内で田沼意知を切った一振りの名刀を手にしたことから、3人の運命は大きく動き始める。
著者は長らく経済関係の出版社に勤務した後、フリーライターを経て、2011年、本作で第18回松本清張賞を齢62歳で受賞。(「BOOK」データベースより)

 

時は江戸時代も中期、侍が侍たり得ることが困難の時代を生きた、なおも侍であろうとした三人の若者の物語です。

「白樫の樹の下で」というタイトルは佐和山道場が白樫の樹の下でにあるところからきています。

とにかく硬質な文章でありながら、濃密な空気感を持った文章です。葉室麟という直木賞作家の文章も簡潔で格調の高い文章だと思いましたが、この作家の文章の透明感は凄いです。

 

「人を斬る」というそのことについての懊悩が、叩けば音がするような文章で描写されています。

勿論読者は剣のことなど何も知りませんし、当然「斬る」という感覚も知らないのですが、あたかも若者の懊悩が感覚として理解できたかのような感じに打たれます。

 

また、村上登の前に横たわる想い人の描写は、そこに「白麻の帷子(かたびら)を着けた佳絵」という人が横たわる場面を切り取ったかのようで、その臨場感、村上登の心理描写には驚きました。

これまで作家と呼ばれる人たちの文章の凄さには何度か脱帽させられましたが、この青山文平という人の文章も見事としか言いようがありません。

 

更に驚かされたことは、青山文平という人は私と殆ど同世代ということもそうですが、二十年ほど前に第十八回の中央公論新人賞をとったことがあるけれども時代小説は本作品が初めてということです。

時代小説の新たな書き手として期待されているという言葉も当然のことだと感じました。

 

本作品の物語としての面白さは勿論のこと、「詩的」な文章とどなたか書いておられましたが、日本語の美しさ、表現力の豊かさを思い知らされた一冊でもありました。

村上海賊の娘

本書『村上海賊の娘』は、瀬戸内に名を馳せた村上海賊当主の村上武吉の娘・景の活躍を描いた長編の時代小説です。

久しぶりに本を読んで胸のおどる経験をした本屋大賞も受賞した物語で、文庫本で全四巻にもなる作品です。

 

時は戦国。乱世にその名を轟かせた海賊衆がいた。村上海賊―。瀬戸内海の島々に根を張り、強勢を誇る当主の村上武吉。彼の剛勇と荒々しさを引き継いだのは、娘の景だった。海賊働きに明け暮れ、地元では嫁の貰い手のない悍婦で醜女。この姫が合戦前夜の難波へ向かう時、物語の幕が開く―。本屋大賞、吉川英治文学新人賞ダブル受賞!木津川合戦の史実に基づく壮大な歴史巨編。(文庫版第一巻 : 「BOOK」データベースより)

 

戦国時代も終わり近くの1568年(永禄11年)から、信長と石山本願寺との間の戦は約十年もの間続くことになります。

本書はその石山合戦と言われる戦の中でも、1576年(天正4年)に毛利氏と織田氏との間に起こった「天王寺の戦い」と「第一次木津川口の戦い」を描いたものです。

 

本書の一番の魅力は登場人物のキャラクターでしょう。まずは「稀代の荒者」で「大層な醜女」である(きょう)が魅力的です。女だてらに豪傑でありながら、まだまだ子供です。

そして宣教師のフロイスに「日本の海賊の最大なる者」と言われた「能島村上」の当主で景の父・村上武吉(たけよし)を始めとする村上水軍の武将たち、それに敵方の、真鍋七五三兵衛(まなべしめのひょうえ)や、鉄砲集団雑賀党の首領である鈴木孫市(すずきまごいち)らがまた非常に人間的で魅せられます。

 

これらの武将が命知らずに暴れまわるのですが、その描写が視覚的です。

著者はインタビューの中で、当時の人間の「命についての考え方」を現代の人間の感覚でとらえては「時代の空気が見えてこない」と言い、そして「当時の空気」として「恐怖に対して鈍感だった」と言っています。

実際、本書の登場人物は、文字通りに「笑いながら」死んでいきます。この点は読みながら誇張が過ぎると思った個所なのですが、このインタビューを読むと、そこはあえて書かれていたようです。

 

そうした意味でも本書は劇画です。主人公の容貌からして醜女から美女まで極端に評価が分かれますし、一方の鍵となる人物である真鍋七五三兵衛はまた『北斗の拳』のラオウを彷彿とさせる武将として描かれています。

また、例えば海戦時において、別々の戦船に乗っている武将がまるで隣の部屋にでもいるかのように会話をしています。

いくらなんでも戦の最中に隣の船までは、どんな大声であろうと届かないだろうと思うのですが、そこはいわばお約束として目をつぶるべきところなのでしょう。

でも、そうした細かな疑問点はものともしない迫力をこの本は持っているのです。

 

本書の魅力の二番目は、綿密な資料の読み込みに裏付けられたリアリティーです。

資料の読み込みだけで一年を費やしているそうで、細かな場面描写にも資料の裏付けを示してあります。それは人物の性格にまで至っており、読み手は書かれている事柄の実在を信じそうになるまでに巧みです。

逆にこの資料の提示が邪魔だという声も散見しました。この点は読み手の好みにもかかわってくるのでしょうが、本屋大賞を受賞している事実はこの手法が受け入れられているということではないでしょうか。少なくとも私は実に楽しく読むことができました。

 

こうした点は、隆慶一郎の『一夢庵風流記』が似たような雰囲気を持っていますが、本書のような劇画調とまでは言えないと思います。あえて言えば『一夢庵風流記』を原作とした原哲夫の画になる『花の慶次』(Kindle版)というコミックの方が近いかもしれません。

 

 

本書は、資料を前面に出しているという点ではこれまでの作風とは異なっていますが、視覚的であり面白さを追求する姿勢は従来と何ら変わりません。これからも読みごたえのある作品を待ちたいものです。

ちなみに、本書は吉田史朗の画でコミック化もされています。 (ビッグコミックス・全十二巻)

 

小太郎の左腕

時は一五五六年。勢力図を拡大し続ける西国の両雄、戸沢家と児玉家は、正面から対峙。両家を支えるそれぞれの陣営の武功者、「功名あさり」こと林半衛門、「功名餓鬼」こと花房喜兵衛は終わりなき戦いを続けていた。そんななか、左構えの鉄砲で絶人の才を発揮する11才の少年・雑賀小太郎の存在が「最終兵器」として急浮上する。小太郎は、狙撃集団として名を馳せていた雑賀衆のなかでも群を抜くスナイパーであったが、イノセントな優しい心根の持ち主であり、幼少の頃より両親を失い、祖父・要蔵と山中でひっそりとした暮らしを営んでいた。物語は、あることを契機に思わぬ方向へと転じていくが–。(「内容紹介」より)

 

雑賀衆の少年、雑賀小太郎の狙撃手としての腕をめぐる長編の時代小説です。

 

主人公の小太郎は鉄砲の名手で、合戦のさ中、その鉄砲の腕が生かされる時が来たのですが・・・。

林半右衛門といういわゆる典型的な「侍」が、彼なりの、自らを裏切らない、という信念を貫きその生を全うしていく中で小太郎の運命がこの侍と絡んできます。

全二作とはまた異なった色合いの作品ですが、読み易さは変わりなく、気楽に読み進めます。

終盤には涙腺に触れる個所もあり、お勧めです。

忍びの国

時は戦国。忍びの無門は伊賀一の腕を誇るも無類の怠け者。女房のお国に稼ぎのなさを咎められ、百文の褒美目当てに他家の伊賀者を殺める。このとき、伊賀攻略を狙う織田信雄軍と百地三太夫率いる伊賀忍び軍団との、壮絶な戦の火蓋が切って落とされた―。破天荒な人物、スリリングな謀略、迫力の戦闘。「天正伊賀の乱」を背景に、全く新しい歴史小説の到来を宣言した圧倒的快作。(「BOOK」データベースより)

 

のぼうの城』同様、天正伊賀の乱という史実を基にした長編の時代小説です。

 

のぼうの城の感動は無い、というのが読後に感じた一番の印象でした。

しかし、あの児玉清氏が絶賛しているくらいだからこの作品を絶賛面人も当然いるのでしょう。

 勿論私もこの本を面白くない、と言っているわけではありません。この作者の文章は読みやすく、ストーリーも面白いのです。ただ、『のぼうの城』と比較すると、『のぼうの城』に軍配が上がると言っているだけなのです。

 

ちなみに、本書も大野智を主演として映画化されていますし、また坂ノ睦の画でコミック化もされています。

 

のぼうの城

戦国期、天下統一を目前に控えた豊臣秀吉は関東の雄・北条家に大軍を投じた。そのなかに支城、武州・忍城があった。周囲を湖で取り囲まれた「浮城」の異名を持つ難攻不落の城である。秀吉方約二万の大軍を指揮した石田三成の軍勢に対して、その数、僅か五百。城代・成田長親は、領民たちに木偶の坊から取った「のぼう様」などと呼ばれても泰然としている御仁。武・智・仁で統率する、従来の武将とはおよそ異なるが、なぜか領民の人心を掌握していた。従来の武将とは異なる新しい英傑像を提示した四十万部突破、本屋大賞二位の戦国エンターテインメント小説。(上巻 : 「BOOK」データベースより)

「戦いまする」三成軍使者・長束正家の度重なる愚弄に対し、予定していた和睦の姿勢を翻した「のぼう様」こと成田長親は、正木丹波、柴崎和泉、酒巻靱負ら癖のある家臣らの強い支持を得て、忍城軍総大将としてついに立ちあがる。「これよ、これ。儂が求めていたものは」一方、秀吉に全権を託された忍城攻城軍総大将・石田三成の表情は明るかった。我が意を得たり、とばかりに忍城各門に向け、数の上で圧倒的に有利な兵を配備した。後に「三成の忍城水攻め」として戦国史に記される壮絶な戦いが、ついに幕を開ける。(下巻 : 「BOOK」データベースより)

 

豊臣秀吉の小田原城攻めの際の石田三成による忍城攻防戦という史実に基づく長編の時代小説です。

 

各場面を単につないでいくに過ぎないような淡々とした語り口でありながら、登場人物の夫々がしっかりと書き込まれています。更には場面ごと情景描写が視覚的で、これは人気が出る筈だとひとり納得しながら一気に読んでしまいました。

 

前評判にたがわない面白い読み物でした。一級のエンターテイメント作品としてお勧めです。

原作者が脚本家だそうで、映像的な描写に納得したものです。

ちなみに、本書を原作として野村萬斎の主演で映画化もされています。

 

蜩ノ記 [ DVD ]

『雨あがる』の小泉堯史監督が葉室麟の時代小説を映画化。ある罪で10年後の切腹を命じられた戸田秋谷。その切腹の日まで秋谷を監視せよとの藩命受けた檀野庄三郎は、秋谷の家族と生活を共にし始める。役所広司、岡田准一、堀北真希、原田美枝子が共演。(「キネマ旬報社」データベースより)

檀野庄三郎を演じた岡田准一は本作での演技が評価され、第38回日本アカデミー賞最優秀助演男優賞を受賞しました。

監督は『雨あがる』『博士の愛した数式』の小泉堯史監督で、丁寧な詩画を作られる人だという印象があります。

役所広治の演技はさすがであり、静謐な原作の雰囲気を丁寧に再現してある、み応えのある映画でした。