青山 文平

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いくら、陣屋の元締め手代に上り詰め、土地の人間の敬意を一身に集めても、信郎にとっては、そこは励み場ではないのだ。いまの信郎が、己の持てる力のすべてを注ぎこむのに足りる場処ではない。信郎が妙に金に身ぎれいで、身代を大きくするのに関心を示さないのも、信郎の励み場が陣屋にではなく、武家にあるからだろう。(本書より)
信郎は江戸へ出て勘定所の下役になり、実績を積み上げて、真の武家を目指すのだが……。
「仕事とは何か」・「人生とは何か」・「家族とは何か」を深く問う書き下ろし時代長篇。(内容紹介 より)

本書は読了後は上質なミステリーを読んだようでもあります。それでいながら、青山文平のいつものテーマである「侍」の姿、そしてその妻が自らに正直生きる姿が示されているのです。

本書においては「名子」という存在が大きな位置を占めています。本文において「江戸幕府開闢(かいびゃく)時に、武家の身分より領地をとって農民になった名主の、昔の家臣が『名子』」であるとの説明があるのですが、こうした存在は今まで全く知りませんでした。

そしてまた、徳川の代になって新たに開かれた田畑に入植してできた村か否かで新田村と本田村とに分かれるなどの説明があります。

このような村社会の成り立ち自体が本書では重要な意味を持っており、書名の『励み場』もこの社会構造に深くかかわってきます。その上で「勘定所は、幕府の御役所の中で数少ない励み場である。」との一文が意味を持ってくるのです。

本書の主人公としては、豪農の娘智恵とその夫笹森信郎ということになります。また、智恵の姉である多喜も重要な位置を占めており、中心人物の一人として挙げることができるでしょう。この姉多喜の妹知恵に対する呼びかけ方の変遷なども伏線としてあるところです。

笹森信郎が自分の人生をかけるに足る「励み場」を求めて呻吟する様は、読み手の心に深く刺さります。それはつまり武士になることであり、そのために勘定奉行所の下役という今の仕事に励む信郎ですが、とある名主のもとに調査に出かけた折の会話など、人生そのものに深くかかわるものであり、信郎の生きかた自体に迫るものでもあります。

そして、その信郎を必死で支えようとする智恵は智恵で、ただひたすらに夫のことを考え続け、ある一歩を踏み出そうとし、その描写の緊張感はたまりません。

また、夫笹森信郎とその妻智恵、そして智恵の姉多喜と家族らの智恵に対する思いなど、夫婦同士の、そして家族の間のひたむきな思いやりは、読む者の心に少しの感動をもたらしてくれます。



これまでは青山文平の小説では『白樫の樹の下で』こそが一番の作品だと思ってきたのですが、本書を読むに至りその考えも変わらざるを得ないようです。研ぎ澄まされた雰囲気や文章の持つ美しさなどは、なお『白樫の樹の下で』のほうが勝っている、とは思うのですが、物語自体の奥行き、重みは本書が勝ると思うのです。

侍を描き、心に残る作品としては少なくない数の作品があるのですが、中でも印象的だった作品としては、第146回直木賞を受賞した 葉室麟の『蜩の記』があります。数年後の切腹を控えていながら、静謐に生きる戸田秋谷とその家族の姿を描いた本書は、その硬質でありながら情感豊かな文章も含めて衝撃的でした。

また、既に古典とも言える作品として、 山本周五郎の『樅ノ木は残った』があります。これは、仙台藩伊達家でのお家騒動、いわゆる伊達騒動を描いた作品で、それまで悪人として描かれることの多かった原田甲斐を新たな視点で描きなおした作品です。平幹次郎主演で、1970年のNHK大河ドラマになったことでも知られています。新潮文庫では全三巻として出版されています。

[投稿日]2017年07月01日  [最終更新日]2017年7月1日
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